第7話 救世主(メサイア)の残像――手を差し伸べる者

7.1 沈黙を住処とする者


――人生を深く観測しすぎた者は、その重みに耐えきれず、

やがて世界そのものを遮断する。


光も、音も、そして神の名すらも。


翌日の午後。

美咲、松原、相川ヒトミの三人は、

東京郊外の住宅地の外れに立っていた。


そこには、音が存在しない。


車の走行音も、子どもの声も、風が木を揺らす気配すらない。

あるはずの生活音が、意図的に削除されたような静寂。


(……おかしい)


美咲は、無意識に息を整えた。


(ここは、静かなんじゃない。『沈黙を選んでいる』)


古びた二階建てのアパート。

外壁の塗装は剥がれ、郵便受けにはチラシが詰まったまま。

だが、荒廃というより――停止している。


「……ここ、っすか」松原が声を潜めた。


「なんか……耳鳴りがするっす。 

 静かすぎて、逆に脳が音を探してる感じ」


「正常な反応よ」ヒトミも、硬い表情で頷く。


「田中さんは、人目だけじゃなく、

 世界そのものから距離を取って生きている。

 ……あの団体での経験が、それだけ深かった」


『あの団体』。


美咲の脳裏に、黄昏館で見た歪んだ祈りの光景がよぎる。


(救済を名乗りながら、人を『素材』として扱う者たち……

 もし、それが市役所という制度の影から、 生まれていたのだとしたら)


美咲は、胸の奥に冷たいものが沈むのを感じた。


ヒトミが、ゆっくりとドアの前に立つ。


「……私がノックするわ」


コン、コン。


乾いた音が、異様なほど大きく響いた。


数秒。十秒。返事はない。


「……留守、じゃないっすよね?」松原が、小声で囁く。


「いるわ」ヒトミは、確信を込めて言った。


「息遣いが、ドアの向こうにある」


再び、ノック。


今度は、内側で何かが擦れる音がした。


――カチャリ。


ドアチェーンが外れる、金属音。


ドアが、ほんのわずかに開く。


そこに現れたのは、

痩せ細った体躯の老人――田中コウイチだった。


年齢は六十代半ば。だが、その目は、

年老いたというより使い果たされたように見えた。


視線が、三人を順に観察する。

逃げ道を探るような、警戒と恐怖。


そして――ヒトミを見た瞬間。


「……相川、さん?」声は、かすれていた。


「本当に……来てくれたんですね」


ヒトミが、静かに頷く。


「ええ。約束したでしょう」


コウイチの視線が、美咲と松原に移る。

一瞬、怯えるように身を引いた。


美咲は、すぐに一歩前へ出て、深く頭を下げた。


「はじめまして。黒崎探偵事務所の、美咲と申します」


言葉を選ぶ。


(刺激してはいけない。でも、誤魔化してもいけない)


「黒崎は今、深刻な記憶障害を抱えています」


コウイチの指が、わずかに震えた。


「……黒崎、さんが?」


「はい。もしかしたら、あなたが知っている彼とは、

 違う状態かもしれません」


正直に、しかし静かに。


「だからこそ、あなたの証言が必要なんです」


沈黙。


長い、長い数秒。


やがて――コウイチは、ゆっくりとドアを開いた。


「……入ってください」


部屋の中は、整理されている。異様なほどに。


だが、窓には厚いカーテンが引かれ、

昼間だというのに薄暗い。


光を拒む空間。


(まるで……『外界と接続すること自体が危険』、

 だと知っているみたい)


美咲は、そう感じた。


三人が腰を下ろすと、コウイチはぽつりと呟いた。


「……黒崎さんは、

 まだ『こちら側』にいますか?」


その問いの意味を、

美咲は即座に理解してしまった。


(こちら側。理性と人間性の、かろうじて保たれた岸)


「……はい」そう答えるしかなかった。


「でも、危うい状態です」


コウイチは、目を閉じた。


そして、深海の底から泡が浮かび上がるような声で言った。


「なら……話さなきゃ、いけませんね」


その瞬間。美咲は、確信した。


――ここが、黒崎の『最初の空白』が生まれた場所だと。


そして同時に、この男の記憶の奥底には、

まだ『名を呼ばれてはならない何か』が、

眠っている、と。





7.2 極限生活という名の果てに


――人間が壊れるのに、怪物や呪文は必要ない。

必要なのは、数字と規則と、わずかな無関心だけだ。


小さなちゃぶ台を挟んで、四人は向かい合って座った。

部屋の照明は弱く、影が不自然に濃い。


(この空間……まるで『生活』が、

 最小単位まで削ぎ落とされた標本みたい)


美咲は、そう感じながらコウイチの横顔を見つめていた。


コウイチは、湯のみを両手で包み込み、静かに語り始める。


「……私が五十にを少し過ぎたころでした。

 普通に働いてはいましたよ。正直に真面目に。

 でも、手取りは月に11万円ほどでした」


松原が、思わず顔を上げる。


「……11万、っすか」


「ええ。家賃が5万円弱。残り六万で、

 光熱費、食費、通信費、医療費、……全部です」


松原は無言でスマホを操作し、数秒後に唸った。


「……計算、合わないっす。 削れるところ、

 もう存在しない。これ、生存条件として成立してない」


コウイチは、かすかに笑った。


「でしょう? でも、役所ではから言われる言葉は…・・

 『働いているなら自己責任』です」


(数字の上では、生きている。

 でも実際には、死に向かって緩やかに落ちていく)


美咲の胸が、きしむように痛んだ。


「贅沢は一切してませんでした。肉は買えない。

 電気は最低限。冬は、息が白くならないよう、布団から出ない」


淡々とした語り口。それが、かえって異常だった。


「そんな、細々と生活をしているうちに……

 仕事中に、腰をやってしまってね」


コウイチは、腰に手を当てる。


「動けなくなりました。働けない。収入はゼロ。

 貯金も、もちろんゼロ」


沈黙。


ヒトミが、唇を噛む。


「……それで、生活保護を申請したんですね」


「はい」コウイチは、頷いた。


「正直、怖かった。『恥』だって言われるのも、

 怒鳴られるのも、覚悟してました」


その瞬間、彼の声に、微かな震えが混じった。


「でも……担当が、黒崎さんと、相川さんだった」


空気が、わずかに変わる。


「黒崎さんは、最初から違いました」


コウイチは、目を伏せ、記憶をなぞるように続ける。


「申請書類じゃなく、私の話を聞いてくれた。

 『何が一番、苦しいですか』って」


ヒトミが、静かに目を閉じる。


「収入の内訳も、痛みの具合も、将来の不安も……

 全部、メモを取りながら」


(黒崎さん……その頃は、まだ感情を『武器』にしていた)


美咲は、胸の奥でそう呟いた。


「彼は言ったんです。

 『制度は冷たい。でも、使い方次第で人は救える』って」


コウイチの目に、一瞬、光が宿る。


「おかげで、私は生活保護を受けられた。

 本当に……あの時は、救世主でした」


松原が、ぽつりと漏らす。


「……所長が、そんなこと言ってたなんて」


「ええ。でも……」


コウイチの声が、再び沈む。


「しばらくして、担当が変わったんです」


その瞬間。美咲の背筋を、冷たいものが走った。


(来る……ここからが、『最初の歪み』)


「理由は、分かりません。 異動だと、言われただけ」


コウイチは、湯のみを置いた。

その底に、黒い影が揺れているように見えた。


「でも……そこから、世界が変わりました」


沈黙。


誰も、先を促さない。


コウイチは、ゆっくりと顔を上げ、言った。


「――まるで、『見えない何かに』、

 生活そのものを観測されているような感覚でした」


その言葉に、美咲は確信する。


(やっぱりだ。この事件は、単なる制度の歪みじゃない)


(誰かが、『極限状態の人間』を材料に、

 何かを確かめていた)


美咲は、拳を握りしめた。


(黒崎さん……あなたは、この異常を、どこまで見てしまったの?)


コウイチは、次の言葉を飲み込むように、

深く息を吸った。


「……次に話すことは、あまりにも、

 現実離れしているかもしれません」


その目が、暗い海の底を見ているように濁る。


「でも、あれが始まりでした。私の人生が――

 『人間であること』を試される実験に変わった瞬間です」



▶第8話へ続く

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