第6話 生活保護の闇――制度の裏側へ
6.1 感情と正義の衝突――観測者が引き裂かれた日
――感情は、真実を歪めるノイズだ。
彼は、後にそう定義した。
だがこの日、黒崎は――
誰よりも感情的で、誰よりも正義に呑まれていた。
ヒトミは、テーブルの上で組んだ指先を見つめながら、
瞳を閉じて、静かに語り始めた。
「……黒崎さんは、怒ったわ」
その声には、当時の空気がそのまま染み込んでいる。
「それもね、ただの憤りじゃない。
世界の構造そのものに、噛みつくような怒り」
美咲は、喉の奥がひりつくのを感じた。
(……今の黒崎さんからは、想像できない)
「証拠を集め始めたのも、彼が一番早かった」
ヒトミは続ける。
「職員のログイン履歴。保護打ち切りの時期。
宗教団体への『紹介』が集中していた日付。
彼は全部、頭に叩き込んでた」
「……それ、完全に探偵のやり方っすね」松原が呟く。
「ええ。でも、その市役所では……
それが一番やってはいけないやり方だった」
ヒトミは苦笑する。
「組織はね、『正しいこと』より、
『波風が立たないこと』を優先する」
美咲は、胸の奥で何かが軋むのを感じた。
(……分かる。正義は、いつも後回しにされる)
「内部告発しようとした瞬間、すべてが動いたわ」
ヒトミの声が、少し低くなる。
「調査は打ち切り。黒崎さんのアクセス権限は剥奪。
彼の行動は『単独の暴走』として処理された」
「……はめられた、ってことっすか」
松原の拳が、膝の上で強く握られる。
「そう」ヒトミは、はっきり頷いた。
「そして、彼は――自分で、それを受け入れた」
美咲が顔を上げる。
「受け入れた……?」
「ええ」ヒトミは、少しだけ目を伏せた。
「不正を公表する直前、彼は私に言ったの」
ヒトミは、当時の声色をそのまま再現するように、
ゆっくりと言葉を紡ぐ。
「『これは、俺一人でやったことだ。
相川は関係ない俺が騙しただけだ』と」
松原が、息を詰める。
「……それ、完全に自己犠牲じゃないっすか……」
「そうよ」ヒトミは微笑んだ。
それは、誇らしさと痛みが入り混じった、
複雑な表情だった。
「彼はね、不器用で……
どうしようもなく、優しい人だった」
美咲の胸に、はっきりとした輪郭が浮かぶ。
(それが……彼が『忘却』で切り捨てた感情)
「彼が役所を辞めた日、
最後に私に言った言葉、覚えてる」
ヒトミは、視線を美咲に向けた。
「『規則の枠内では、真実は追えない』
『真実を追うなら、自分が【観測者】になるしかない』って」
美咲は、その言葉を噛みしめる。
(……探偵になった理由。
それは、職業じゃない。生き方だったんだ)
「だから、彼は市役所を去った」ヒトミは続ける。
「そして、私は残った。……正直、悔しかったわ」
「悔しい?」松原が尋ねる。
「ええ」ヒトミは頷いた。
「彼みたいには、なれなかった。でも、
違うやり方でなら、真実に触れられると思った」
ヒトミは、カップを持ち上げる。
「だから、ジャーナリストになったの。
彼が照らせなかった場所を、私は外から照らすために」
しばし、沈黙。
ファミレスの喧騒が、やけに遠く感じられる。
松原が、静かに尋ねた。
「……ヒトミさん。所長と、それ以来……?」
「一度も会ってない」ヒトミは即答した。
「彼は、完全に消息を断った。 次に彼の名前を見たのは――」
一瞬、言葉を切る。
「『異様なオカルト事件を追う、凄腕の探偵』として、
ネットニュースに載っていたときよ」
美咲は、はっきりと悟った。
黒崎は、あの時すでに『深淵』と目が合っていた。
そして、再び同じ痛みを見る覚悟を失うくらいなら、
感情そのものを切り捨てたのだと。
6.2 最初の空白の証人――名を呼ばれた者
――人は、忘却する。
だが、忘れられた側は、決して忘れない。
美咲は、テーブルの上で静かに指を組んだ。
「……その闇の事件で」
一瞬、言葉を選ぶ。
「黒崎さんが、特別に気に掛けていた被害者の方は……
いらっしゃいますか?」
ヒトミは、すぐには答えなかった。
コーヒーの表面に映る照明を見つめ、
やがて小さく息を吐く。
「いるわよ」そして、はっきりと言った。
「田中コウイチさん」松原が、思わず身を乗り出す。
「実名っすか……?」
「ええ。身寄りのない、中年の男性。
誰にも頼れなくて……だからこそ、黒崎さんに心を開いた」
ヒトミの声は、どこか柔らかい。
「黒崎さんはね、窓口に来た人全員に優しかったけど……
コウイチさんに対しては、明らかに違った」
美咲は、胸の奥で何かが微かに震えた。
(……私情)
「団体に『引き取られた』あとも、彼の安否をずっと追っていたわ。
上から何度止められても、非公式に、ね」
「……それ、完全にアウトじゃないっすか」
松原が呟く。
「ええ。だから、 それが決定打になったとも言える」
美咲は、慎重に問いを重ねた。
「田中コウイチさんとは……
今、連絡は取れる状態ですか?」
その瞬間、ヒトミの表情がわずかに曇った。
「……正直に言うわね」少し間を置いて、続ける。
「彼は、団体からはギリギリ逃げ出せた。
でも、心は――戻ってきてない」
美咲の喉が、きゅっと鳴る。
「今は、東京の端の小さなアパートで、
ほとんど誰とも会わずに暮らしてる。
外部の人間を、極端に拒絶してるはずよ」
沈黙。
ファミレスのBGMだけが、やけに軽薄に流れる。
(……それでも)
美咲は、視線を上げた。
「それでも、彼に会う必要があります」
松原も、ゆっくり頷く。
「所長の『空白』、そこが一番最初っすよね」
ヒトミは、二人を見つめたあと、
静かに決意を固めたようにスマホを手に取った。
「……分かったわ」
「ヒトミさん?」
「黒崎さんのためなら(いろいろあったしね)、
私も、もう一度踏み込む」
ヒトミの声は、強かった。
「職場では決して見せなかった私情。
あれはね、コウイチさんに対するものだった」
美咲は確信する。
(そこだ。感情が、まだ『生きていた』場所)
ヒトミは、その場で情報を洗い直し、
いくつかの連絡先を辿り――
やがて、発信ボタンを押した。
短い通話。
沈黙。
そして、数分後。
ヒトミはスマホをテーブルに置き、
静かに告げた。
「……会ってくれるって」
美咲の胸に、熱が込み上げる。
「ただし」ヒトミは、言葉を区切った。
「条件がある」
「条件……?」松原が唾を飲む。
「『黒崎という男が、今どうなっているのか』
それを、知りたいって」
美咲は、強く頷いた。
「明日の午後。 彼のアパートへ行きましょう」
その言葉に、『過去』が現実の座標を持った気がした。
美咲は、胸中でそっと呟く。
(規則という檻の中で、彼が切り開いた正義の道……
その先に、失われた感情が眠っている)
その時。
事務所内の奥の仮眠室から、
規則正しいタイピング音が、微かに聞こえた。
松原が、視線を向けたまま呟く。
「……所長は、自分が『誰の救世主』だったか、
覚えてないんすよね」
「ええ。でも――」美咲は、答えた。静かに、言葉を継ぐ。
「覚えている人間は、まだ生きている」
その夜。
東京の夜景は、妙に静まり返っていた。
ビルの隙間。街灯の影。
そこに、まるで古い印章のような影が、
ゆっくりと蠢いているのを――美咲だけが、見た気がした。
それは、過去から呼ばれる『名』。
あるいは、最初に開いてしまった、空白への入口。
▶第7話へ続く
※ 三面記事にもならない事件簿01 生活保護の闇より、
男性・女性職員は若き日の黒崎とヒトミ。
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