第5話 公務員時代の共犯者――相川ヒトミ

5.1 深夜ファミレスに潜む記号論


――公務員。探偵。論理。感情。それらは本来、

同じ人間の内部で共存できる概念だったはずだ。


だが、もしその接続点が『切断』されていたとしたら?


答えは、安っぽいネオンと油の匂いに満ちた……

深夜のファミレスに沈んでいた。


深夜二時。客の少ないファミレスは、

奇妙な安心感と不安を同時に孕んでいる。


誰にも聞かれていないようで、

実はどこかに『耳』がある――そんな感覚。


(……境界に立つ場所)


美咲は、無意識に周囲を見回してから、息を整えた。


「彼女かしら、来たわね」

「はい。多分、あの人っす」


松原が顎で示した先に、一人の女性が立っていた。


相川ヒトミ。

知的で整った顔立ちだが、目だけが異様に鋭い。


それは『見る側』の人間の眼差し――

真実を切り取る刃のようだった。


「……お待たせ」


ヒトミは席に着くなり、

メニューも開かずに美咲たちを見た。


「前置き、いらないわよね。黒崎さんのこと、詳しく教えて」


(早い……逃げ道を作らないタイプ)


美咲は一瞬だけ迷い、それから腹を括った。


黄昏館。忘却のルーン。

神楽ルナの診断――感情という名の観測レンズの喪失。


言葉を選び、しかし誤魔化さずに語る。


ヒトミは黙って聞いていたが、コーヒーカップを持つ手が、

わずかに震えているのを美咲は見逃さなかった。


「……感情を、失った?」ヒトミの声が低くなる。


「嘘でしょ。あの人ほど、怒る人はいなかった。

 理不尽に、制度に、数字に……」


松原が思わず口を挟む。


「やっぱ、そうっすよね? 今の所長見たら、別人っすよ。

  感情ゼロ、論理百パーセントの人型サーバーっす」


「……想像できるわ」ヒトミは苦く笑った。


「黒崎さん、よく言ってたの。

 『制度は人を守るためにある。でも、人は制度に殺される』って」


美咲の胸が、きゅっと締めつけられる。


(それ、今の彼が一番言わなさそうな言葉……)


「ヒトミさん」美咲は静かに続けた。


「あなたは、黒崎さんが

 まだ『感情を使っていた頃』を知っている唯一の人です。

 彼の空白に繋がる事件――ありませんか?」


ヒトミは視線を落とし、しばらく黙った。


やがて、ぽつりと呟く。


「……共犯、って言葉。嫌い?」


「え?」


「私と黒崎さん、

 公務員時代、ある案件で『共犯』だった」


松原が息を呑む。


「共犯……何の事件っすか?」


「事件には、ならなかった。ううん、

 正確には――ならなかったことにされた」


ヒトミは、美咲を真っ直ぐに見た。


「生活福祉課にはね、なんと言ったらいいか……

 『数字に載らない人間』がいたのよ」


美咲の背筋に、冷たいものが走る。


(数字に……載らない、どういうこと)


「申請書もある。存在もしている。でも、処理できない。

 制度が『想定していない』って理由でね」


ヒトミは続ける。


「黒崎さんは、それを許せなかった。

 だから――彼は行動を起こした」


「何んのですか……?」


ヒトミは、かすかに笑った。


「制度の外側で、苦しんでる人を救うこと」


その言葉は、この世界の前提を、

静かに侵食していく呪文のようだった。


(それは正義? それとも、深淵を覗いた瞬間?)


美咲は確信する。


ここにあるのは、黒崎が『何を見てしまったか』の入口だ。


だが同時に――

それは、もう一度彼を壊す鍵でもある。


「……その話、詳しく聞かせてください」


美咲の声は、震えていなかった。

だが、心の奥で何かが軋む。




5.2 規則という名の檻――沈黙を量産する制度


――規則は、人を守るために作られた。

だが、その規則が『例外』を許さなくなったとき、

そこは救済の場ではなく、静かな収容所になる。


ヒトミは、ファミレスの照明を見上げるようにして、

ゆっくりと口を開いた。


「……黒崎さんが生活保護課で、何をしていたか、よね」


美咲は頷く。


(ここからが、本当の過去だ)


「私たちは、申請窓口に並んで座ってた。

 でもね、彼だけは明らかに『仕事の仕方』が違った」


松原が身を乗り出す。


「違うって……どう違ったんすか?」


「提出された書類を先に見ないの」


ヒトミは苦く笑った。


「まず相手の顔を見る。声の揺れを聞く。

 申請理由より先に、その人が『どこで壊れたか』、

 を観測しようとした」


美咲の胸が、きゅっと締め付けられる。


(……それ、今の黒崎さんが最も忌避している行為)


「生活保護の申請者ってね、

 もう『数字』にされることに慣れきってるの」


ヒトミは続ける。


「年齢、収入、扶養義務、資産。

 そのどれか一つが基準から外れた瞬間、

 『却下』という文字で人生が切断される」


「……冷たいっすね」松原の声が低くなる。


「ええ。それは、ある意味ルールだしね。

 だから黒崎さんは、いつも言ってた」


ヒトミは、かつての言葉を正確になぞるように語る。


「『これは事務処理じゃない。

 人が、生き残れるかどうかの分岐点だ』って」


美咲は、無意識に指先を握りしめていた。


(そんな人が……

 どうして今、感情を『ノイズ』だなんて言えるの?)


「でも、市役所は違う」


ヒトミの声が、はっきりと硬質に変わる。


「組織にとって大事なのは、前例と規則と、予算の帳尻。

 感情は、業務効率を下げる『異物』よ」 


「……それで」美咲が促す。


「彼は気づいたの」


ヒトミは一拍置いた。


「規則の『外」に除外されて、消えていく人たちがいることに」


「消える……?」


松原が眉をひそめる。


「申請が通らなかった人、身寄りのない人、

 記録が曖昧な人たちが、

 ある時期を境に、同じように姿を消していた」


美咲の脳裏に、黄昏館の地下がよぎる。


(記録から消える……

 それは、観測されなくなるということ)


「最初は、私も不正だと思ったわ」ヒトミは続ける。


「でも、掘り下げるうちに、だんだん分かってきた。

 あれは……人身売買だった」


テーブルの上の水が、微かに揺れる。


「市の一部職員が『支援が難しいケース』を選別して、

 慈善団体や宗教団体に横流ししてた」


「宗教……団体!」美咲の喉が、ひくりと鳴る。


「表向きは、無料の避難シェルター。

 でも実態は、労働力の供給。あるいは……」


ヒトミは言葉を選び、声を落とした。


「儀式のための人員確保」


松原が、思わず息を吸い込む。


「マジで……そんな……」


「信じたくないわよね。でも――本当なの」


ヒトミは、美咲を真っ直ぐ見た。


「黒崎さんは、そこに

 『人間ではない何か』の匂いを嗅ぎ取っていた」


美咲の背中を、冷たい感覚が走る。


「彼は言ってた」


ヒトミは、ほとんど囁くように言った。


「『あの教義は、人間のためのモノじゃない。

 理性を削って…心を削って、

 別の『視点』を埋め込むためのものだって」


(……深海。名を呼んではいけない存在)


「だから、彼は規則を破った」ヒトミは静かに締めくくる。


「救おうとしたの。彼らを、観測から零れ落ちる人間を」


美咲は確信していた。


黒崎の探求心は、探偵になってから生まれたのではない。


制度という名の檻の中で、

すでに深淵と目が合っていたのだ。



▶第6話へ続く


  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る