第4話 過去の軌跡――公務員時代

4.1 官僚機構に埋もれた観測者


――役所の公務員。

その言葉は、美咲の中で何度反芻しても、

黒崎という人物像と、致命的なほど噛み合わなかった。


煙草とZippoの匂い。皮肉混じりの推理。

そして、深淵を前にしても一歩踏み出す、危険な好奇心。


(あの人が……規則と書式に囲まれて、

 デスクに座っていた?)


違和感は、もはや拒絶に近い。


「所長が……公務員?」


松原が、事務所の中央で頭を抱えた。


「いやいや、無理っす!鉄筋コンクリートの市役所で、

 住民票とか戸籍謄本とか発行してる所長とか!

 僕の脳内OS、完全にフリーズしたっす!」


「落ち着いて」


美咲はキーボードを叩きながら、淡々と言う。


「『想像できない』からこそ、意味があるの」


画面には、断片的な履歴データが並んでいる。

どれも意図的に薄められ、輪郭だけが残された記録。


「公務員って、ある意味で

 最も『論理的』で『非感情的』な職業の一つよ」


美咲は言葉を選びながら続けた。


「規則、前例、文書、決裁。

 個人の感情は、基本的に排除される」


松原が、はっとする。


「……今の所長みたい、ってことっすか?」


「そういうことになるわ」美咲は小さく頷いた。


「もし、黒崎さんがその時代に、感情を使いすぎた結果、

 何か『取り返しのつかないもの』を、失っていたとしたら……」


(それが、最初の空白?)


背筋に、冷たいものが走る。


二人は、東京CJ調査室の裏ルートと、

黒崎探偵事務所が培ってきた独自の情報網を総動員し、

過去のデータを掘り起こし始めた。


公文書の奥。削除されたログ。誰も見返さない保管庫の隅。

そこには、制度という名の深淵が横たわっている。


数時間後。


「――あっ!」


沈黙を破ったのは、松原の声だった。


「見つけたっす! 東京XX市役所!

 生活福祉課! 在籍期間、約二年!」


「生活福祉課……?」


美咲は画面に身を乗り出す。


(市民と、社会の『底』が接する場所)


「事件扱いにはなってないっすけど」


松原は資料を読み上げる。


「退職理由は、

 『職員間の意見対立および内部規定違反』」


「規定違反……」


美咲の眉が、わずかに動いた。


「さらに掘ったら、生活保護の受給者を巡って、

 市の規則を無視して動いたって記録があるっす」


松原は、驚きを隠せない。


「不正受給を疑われてた家庭を、独自に調査して、

 『助けるべきだ』って主張したらしいっすよ」


美咲は、息を呑んだ。


(……規則を破ってでも、人を助ける)


それは、今の黒崎からは想像もつかない行動。


「きっと……」


美咲は、静かに呟いた。


「それが、黒崎さんの『感情』と『正義』の原点」


(人を数字や書類じゃなく、『存在』として見てしまった)


その視線こそが、

彼を探偵にしたのだと、美咲は直感した。


松原は、さらに情報を掘り下げる。


「それと……もう一つ」


声のトーンが、変わる。


「当時、所長と一番近かった人物の名前が出てきたっす」


美咲は、顔を上げる。


「誰かしら?」


「相棒とされてた相川ヒトミ」


松原は、はっきりと言った。


「当時の同僚。今はフリーのネット記者らしいっす。

 年齢は三十代前半の女性」


その名前を聞いた瞬間、美咲の胸に、言

いようのないざわめきが広がった。


(『相棒』……?)


黒崎が、最も人間らしかった時代に、

最も近くにいた人物。


それは偶然か。それとも――

最初に、深淵を一緒に覗いた存在なのか。




4.2 相棒の名を呼ぶ残滓


――相棒、という言葉には呪いがある。

過去を共有した者の名を呼んだ瞬間、

忘れたはずの記憶は、深淵の底から手を伸ばしてくる。


松原の指は、キーボードの上を跳ねるように動いていた。


「いました。相川ヒトミ。ネット記者、複数メディアに寄稿。

 ……あ、メールアドレスも特定できたっす」


「早いわね」美咲は短く息を吐き、椅子を引き寄せた。


(黒崎さんの『相棒』。

 彼が、まだ感情を使って生きていた頃の証人)


美咲は慎重に、言葉を選びながらメールを打つ。

すべてを語ることはできない。だが、嘘も書けない。


――生命に関わる重大な記憶欠損

――過去の事件を辿る必要性


それだけを、淡々と。


送信。


数分も経たないうちに、携帯が震えた。


『黒崎さんが? ……あの人が、そんなことになるなんて。

 分かりました。困っているなら、協力します。

 場所は、どこでも構いません』


美咲は、しばらく画面を見つめてから、静かに呟いた。


「……即答ね」


「気にしてたんすね、相当」


松原は小さく笑ったが、その目は真剣だった。


「『過去形』じゃない感じがするっす」


「ええ」美咲は頷く。


(相棒は、今も相棒のまま。たとえ、片方がそれを忘れていても)


二人は翌日の午後、

都内のファミリーレストランで会う約束を取り付けた。


その直後――事務所の奥から、

規則正しいタイピング音が聞こえてくる。


無機質で、感情のないリズム。


松原は思わず声を潜めた。


「……美咲さん」

「なに?」


「所長って、なんでそこまで人助けしてたのに、

 公務員を辞めて、探偵になったんすかね。

 

 それも、あんな……

 オカルト絡みの特殊案件ばっかり扱う探偵に」


美咲は、少し考えてから答えた。


「きっと、規則の内側では――

 『最後まで観測できなかった』のよ」


(救えない人がいた。

 見なかったことにしろ、と言われた何かがあった)


「黒崎さんの探求心と正義は、

 市役所という『安全な箱』を突き破ってしまった」


松原は、ゆっくりと息を吸った。


「……それで、深淵を覗くことになった、と」


美咲は、机に広げていた資料を閉じた。


「ヒトミさんが知っているのは、感情を失う前の、

 いちばん『人間だった頃』の黒崎さん」


(そこに、最初の空白がある)


「そこから、彼の欠損の入口を見つけるわ」


その時だった。


奥の仮眠室のドアが、ほんの数センチ、音もなく開いた。


「美咲」背筋が凍る。無感情な声。


だが、確実に『こちら』を観測している。


「私の休暇は、残り六日だ」


黒崎の視線は、どこか人ではない焦点を結んでいた。


「それまでに、論理的解釈が不可避となる……

 未解決の異様な事象のリストを作成せよ。思考最適化のためだ」


沈黙。


松原は、息を止めていた。


(聞いてた……全部)


「……承知しました、所長」


美咲は、声が震えないように答えた。


黒崎は、それ以上何も言わず、

再びドアの向こうへ消えた。


美咲の胸は、激しく脈打っていた。


(彼が求めているのは、謎じゃない)


それは――自分を壊すかもしれない『観測対象』。


思い出す鍵か。それとも、理性を溶かす異界へのパスワードか。


(私が選ぶのね)


真実を見せるか。それとも、見せないまま守るか。

その選択が、黒崎という探偵の未来を決める。



▶第5話へ続く


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