第3話 過去を辿る旅へ――黒崎のルーツ

3.1 凍結された探偵事務所


――探偵とは、本来「観測する側」の人間だ。

だが、その観測者自身が「観測をやめた」とき――


世界に残されるのは、

意味を失った事実と、説明不能な空白だけになる。


黒崎探偵事務所は、

まるで時間ごと冷凍されたかのように静まり返っていた。


暖房は入っている。照明も、いつも通り点いている。

だが空気だけが、異様なほど冷たい。


(……音が、死んでる)


美咲はそう感じながら、事務所の中央に立っていた。


人が活動している場所特有の、微細な雑音――

キーボードの打鍵音、紙の擦れる音、ため息や独り言。

そうした『生の痕跡』が、ここには存在しない。


所長・黒崎は現在、一週間の休暇中だ。


もっともそれは、『精神的回復のための静養』などという、

人間的なものではなく、美咲が必死に言い換えた……


『感情的ノイズ除去を目的としたデータ整理期間』

という名目によるものだった。


その間、黒崎は事務所奥の仮眠室に籠もり、

淡々とプログラミングを行い、

論理学と暗号理論の専門書だけを読み続けている。


感情を伴わない、完全に合理的な『休暇』。


(……休んでるのに、壊れていくって、何なのよ)


美咲は、胸の奥がじわりと痛むのを感じた。


「うーわ……」


コーヒーサーバーの前で、松原が肩をすくめる。


「所長がいないだけで、

 ここまで『異界感』出る事務所、あります?


 なんか、壁に《深淵の落書き》がまだ残ってるみたいで、

 ずっと背中ゾワゾワするっす」


「それ、気のせいじゃないと思うわ」


美咲は資料から目を離さずに答えた。


「この事務所、黒崎さんの『感情』を中心に回ってた。

 本人が自覚してなくてもね」


松原は眉をひそめる。


「感情っすか……あの人、

 感情を表に出すタイプじゃなかったじゃないっすか」


「ええ。でも、持ってなかったわけじゃない」


美咲は静かに眼鏡を押し上げた。


「怒りも、皮肉も、諦めも、

 全部ちゃんと『人間の温度』で存在してた。

 それが今は……」


言葉が、自然と途切れる。


(今の所長は、『正解を出す装置』でしかない)


それは探偵としては理想的かもしれない。

だが、人としては――あまりにも危うい。


「神楽ルナ先生、言ってたっすよね」


松原が声を落とす。


「今回の件は『初めて』じゃないって。もっと前に、

 所長は一度、でっかい空白を抱え込んでる可能性があるって」


「そうなの」美咲は頷いた。


「探偵事務所を開く前。あるいは、開いて間もない頃……

 彼が一番『人間らしかった時期』に起きた何か」


美咲は、デスクに広げた古い書類に視線を落とす。


依頼記録。新聞の切り抜き。

ネットにも残っていない、地方紙の記事。


そこには、不自然な欠落があった。


(……意図的に、消されてる)


「正直、怖いっす」松原は率直に言った。


「所長の過去を掘るって、それこそ『覗いちゃいけない何か』に

 触れる感じがして……」


美咲は、一瞬だけ目を閉じた。


(怖くないわけ、ないでしょ)


月詠心療室で見た、黒崎の知覚に巣食う『先客』。

深淵は、すでにこちらを認識している。


(でも……)


彼女は、はっきりと顔を上げた。


「それでも、やる」声に迷いはなかった。


「このままじゃ、黒崎さんは『救われた探偵』じゃなくて、

 ただの『正解を出し続ける観測装置』になる」


松原が、息を飲む。


「……美咲さん」


「所長は、私に言ったの」


美咲は、ふと遠い記憶を見るような目をした。


『真実を観測するってのはな、

 自分が壊れる可能性を引き受けるってことだ』


(だったら……)


「今度は、私が引き受ける番よ」


美咲は立ち上がり、ファイルを手に取った。


「松原くん。最初に調べるのは、

 黒崎探偵が『探偵になった理由』」


「つまり……」


「最初の事件。彼が『逃げなかった』最初の現場」


その瞬間、事務所の奥――黒崎のいる仮眠室の方角から、

微かに、何かが軋むような音がした。


美咲は、反射的にそちらを見る。


(……今の、何?)


気のせいかもしれない。だが、その沈黙は、

どこか『待っていた』ようにも感じられた。


まるで、過去そのものが、

再び観測されるのを望んでいるかのように。





3.2 東京CJ調査室に眠る旧き記録


――過去を調べるという行為は、

すでに終わった出来事を掘り返すことではない。


それは、まだ終わっていない『何に』に、

再び視線を向ける行為だ。


美咲が最初に手を伸ばしたのは、

黒崎探偵事務所の『出自』とも言える場所だった。


東京CJ調査室。


黒崎が独立する以前、

所属していた民間調査・警備機関。そして――彼が、

まだ「一人で背負わずに済んでいた」時代の名残。


(……所長の過去を辿るなら、ここを避けて通れない)


美咲は一度、深く息を吸い、携帯電話を耳に当てた。


数回のコール音。

その間、心臓の鼓動がやけに大きく感じられる。


(お願い……出て)


「――はいはい、もしもし?」


通話口から聞こえてきたのは、知的で、

どこか軽やかな、それでいて油断ならない声。


「美咲さん? どうしたの、珍しい。まさか今度は…・・

 『事務所にゴキブリが出たから退治して』とか?

 ……あ、違う顔だこれ」


「アヤさん……お久しぶりです」


美咲は、無意識に背筋を伸ばしていた。


「ごめんなさい、冗談に付き合える状況じゃなくて。

 ……黒崎さんのことです」


その一言で、電話の向こうの空気が変わる。


「……続けて」


柊アヤ。

黒崎が独立する直後まで相棒を務め、

現在は東京CJ調査室・特殊課に所属する調査員。


冗談好きで飄々ひょうひょうとしているが、

実力は黒崎に引けを取らない探偵だ。


美咲は、黄昏館で起きた出来事を、

できる限り簡潔に、しかし隠さず説明した。


深夜の儀式。名状しがたい『深淵』。

そして――黒崎が支払った『忘却』という代償。


説明が終わったとき、

電話の向こうで、短い沈黙が落ちた。


「……なるほどね」


アヤの声から、いつもの軽さが消えている。


「観測を放棄した探偵、か。

 皮肉が効きすぎてて、笑えないわね」


「笑えません」


美咲は、はっきりと言った。


「黒崎さんが探偵を辞めることだけは、

 絶対に受け入れられない。


 神楽ルナ先生は、過去に大きな事件か事故があって、

 そこに『空白』がある可能性を示唆しました」


「……ああ」


アヤは、何かを思い出したように息をつく。


「やっぱり、そこに行き着くか」


「心当たりがあるんですか?」


「『ある』というより……

 『触れないようにしてきた』と言った方が正確かな」


美咲の喉が、無意識に鳴った。


(触れない……?)


「黒崎さんの過去のデータはね」


アヤは声を落とす。


「独立したからって、簡単に消せるものじゃない。

 特に、うちの特殊課にいた頃の記録は」


「特殊課……」


「ええ。当時の課長は汐崎レイカ、今も続けてるけど。

 美咲ちゃんも面識あるでしょう。

 情報管理だけは異常なほど徹底してるわ」


アヤは少し間を置いてから、続けた。


「私が、レイカ課長に当たってみる。黒崎さんが、

 在席中関わっていた事件、それについての個人情報監査ね」


「そんなこと、できるんですか?」


「黒崎さんは、レイカ課長の直属の部下だったのよ」


あっさりと言い切る。


「情報を一から当たるから時間はかかるし、

 感情のことまでは、調書で分かるかどうか?」


美咲は、思わず息を詰めた。


「そこまで……」


「昔の相棒だもの」


アヤは、少しだけ笑った気配を見せる。


「それに、今の黒崎さんは……あまりにも『正しすぎる』感じ。

 あれは、人間がなっていい状態じゃない」


美咲は、強く頷いた。


「ありがとうございます、アヤさん」


「ただし」


声が、少しだけ低くなる。


「その間に、美咲さんたちは『手前の空白』を埋めてね」


「手前……?」


「そう。黒崎さんが、東京CJ調査室に入る前」


一拍。


「……彼の最終経歴、知ってる?」


美咲は、記憶を辿る。

履歴書。断片的な情報。


(確か……)


「……東京CJ調査室、ですか?」


「その前よ。知らないみたいね。

 黒崎さんは役所の公務員よ」



通話が切れたあと、事務所には、再び沈黙が落ちた。

美咲と松原は、顔を見合わせて絶句した。


松原が、乾いた声で言う。


「……え? ええ!

 所長、元・公務員?」


美咲は、ゆっくりと頷いた。


(探偵になる前。観測者になる前。

 役所という巨大な『視線』の中にいた……?)


その瞬間、美咲の背筋を、冷たいものが撫でた。


(それって……黒崎さん)



▶第4話へ続く

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