第2話 神楽ルナ深淵の闇へ――境界の観測者
2.1 記憶欠損と知覚への感応
――黒崎が待合室に残された、その瞬間だった。
空気が、わずかに「軽く」なる。
重力が一段階だけ弱まったような感覚に、
美咲は思わず振り返った。
(……切り離された)
ガラス越しに見える黒崎の背中は、
相変わらず無駄がなく整然としている。だが、
そこには人の気配よりも、精密機械に近い静けさがあった。
「こちらへ」
神楽ルナの声に導かれ、美咲、松原、
そして青葉ハルカは奥の相談室へと通される。
白を基調とした簡素な部屋。
だが壁際には、意味を成さない円環文様と、
宗教も系譜も不明な護符が無造作に並んでいた。
(……心療室、だよね。異界の観測所じゃ、ないよね)
ルナは何事もないようにコーヒーを淹れ始める。
豆を挽く音が、やけに大きく、規則正しく響いた。
「黒崎さんの状況は――」
湯を注ぎながら、静かに切り出す。
「私には、ほぼ手に取るように分かりました」
松原がごくりと喉を鳴らした。
「……やっぱ、相当ヤバいんすか」
「ええ。ただし『壊れて』はいません」
その言葉に、美咲の胸がわずかに揺れる。
(壊れてない……でも、正常でもない?)
「彼の意識は、 非常に高性能な演算装置へと最適化されています」
ルナは淡々と続けた。
「論理と事実だけで自己を構築し、
人間を人間たらしめる『好奇心』という駆動源が、
ほぼ完全に消滅している」
松原が身を乗り出す。
「やっぱり!
あの招待状の裏に刻まれてた『忘却のルーン』……
所長が撃ち抜いた、あれの代償っすよね!?」
「その可能性は高いでしょう」
ルナは頷く。
「彼は自ら、あるいは強要されて、
最も重要なものを捨てました。
――『感情という名の観測レンズ』を」
美咲の胸が、強く締め付けられる。
(観測レンズ……世界を、事件を、人を……
黒崎さんが『面白がって』見ていた、あの目)
耐えきれず、美咲はハルカを見た。
「……ハルカさん。
あの、うちの所長は……もう、元には戻らないんでしょうか」
声が、わずかに震える。
ハルカは一瞬だけ視線を伏せ、
それから優しく首を振った。
「美咲さん……ルナ先生は、
そんなことで諦める人じゃありません」
だが、続く言葉は重い。
「でも、今回の『傷』は、普通のトラウマや記憶障害じゃない。
魂の深淵に刻まれた、超常的な「記録の消去』に近いんです」
「……魂、っすか」松原が乾いた笑いを浮かべる。
「オレ、もうその単語だけで胃が痛いんすけど」
ルナはコーヒーカップを置き、美咲を真っ直ぐに見つめた。
「美咲さん、松原くん。
これは精神病ではありません」
断言。
「深淵が、黒崎さんの『観測という特権』を、
対価として要求した結果です」
「対価……」美咲は唇を噛む。
(そんなもの、払わせていいはずがなかったのに)
だが、ルナは続けた。
「ただし」
その一言で、空気が張り詰める。
「彼の知覚の最奥には、その代償を『払う価値があった』、
と思わせるほどの、強烈な情動の残響が残っています」
美咲の心臓が、どくりと鳴った。
(残ってる……? 黒崎さんの中に、まだ)
ルナは立ち上がり、胸元の勾玉と十字架に同時に触れる。
「私の力で、黒崎さんの知覚へ感応します。
脳と魂に残された『記憶の残響』を辿り、
何が失われたのか――その空白の輪郭を掴みたい」
「でも」静かに、釘を刺す。
「私が見られるのは、あくまで残響だけ。
それを埋めるには、外側からの情報が必要です」
ルナは二人を見据えた。
「黒崎さんの過去を、洗い出してください」
「今回の事件より『前』。彼の好奇心と感情を、
決定的に揺さぶった事件、事故、選択。
忘れられたはずの空白に、
今回の忘却が引き寄せられた可能性があります」
部屋の香が、ふっと濃くなった。
まるで、見えない何かが「その話題」に耳を澄ませたかのように。
美咲と松原は、無言で顔を見合わせる。
(黒崎さんの過去……
私たちが、知らない「始まり」がある?)
2.2 深淵の残響――観測された空白
――診察室の扉が閉まった瞬間、
世界の『音量』が一段階落ちた。
美咲は待合室の椅子に座りながら、
はっきりとそれを感じていた。
壁一枚隔てた向こうで、黒崎とルナが向き合っている。
(……今、所長は「覗かれてる」)
そう思った瞬間、背中に冷たいものが走る。
黒崎がただ診察を受けているだけだとは、
どうしても思えなかった。
それは治療ではなく――観測。
あるいは、もっと別の言葉で呼ぶべき行為。
*
ルナは、無感情な黒崎の正面に腰を下ろした。
「では黒崎さん。ここからは、
通常の心理面談とは異なる工程に入ります」
淡々と、だが拒否を許さぬ声。
「不快や違和感を覚えた場合は、
即座に中断します。
――もっとも、
あなたが『それ』を不快と認識できるかは、未知数ですが」
黒崎は即座に答える。
「了承する。リスクは許容範囲内と判断」
(……ほんと、機械みたい)
その声音に、ルナはわずかに目を細めた。
「目を閉じてください。私の『声』だけに意識を集中して」
黒崎は一切の逡巡なく、瞼を下ろす。
ルナは深く息を吸い、祝詞を唱え始めた。
日本語でも、ラテン語でもない。
神道の祝詞と、キリスト教の祈祷文が、
位相をずらしながら重なっていく。
室内の香が、濃くなる。
ルナの瞳が、わずかに金色を帯びた。
(……強固ね)
彼女の意識は、黒崎の精神構造へと触れていく。
そこは、徹底的に整理された論理の回廊。
感情という「不確定要素」を排した、冷たい知識の図書館。
(まるで、自分で自分を守る要塞を築いたみたい)
だが――さらに深く潜った瞬間、
ルナは「それ」を見た。
巨大な空白。
記憶が「ない」のではない。
最初から、そこだけが削り取られている。
(……深淵)
忘却ではない。喪失でもない。
『覗かれた痕跡』。
次の瞬間、残響が雪崩れ込んでくる。
――赤黒い液体。
――焦げた鉄と血の匂い。
――誰かの、喉が裂けるような叫び。
――そして、粘液のように絡みつく囁き。
『覗くな』
『覗けば――見返される』
それは言葉ではなく、概念そのものの警告だった。
「……っ!」
ルナは即座に意識を引き剥がす。
現実へ。
額に冷や汗が滲み、
胸元の勾玉と十字架を、思わず強く握りしめていた。
「ルナ先生!」ハルカが駆け寄る。
「大丈夫ですか!?」
「……ええ。問題ない」
呼吸を整えながら、ルナは答えた。
「ただ……予想以上に『深い』」
黒崎は、相変わらず無表情で目を閉じたままだ。
「黒崎さん。今、何か見ましたか?」
「いいえ」即答。
「意識に変化なし。未定義の映像・
感覚入力は検出されていない」
(……自覚すら、できない)
ルナは静かに首を振り、ハルカに目配せした。
「診察はここまでにしましょう。
これ以上は、彼の構造そのものに負荷がかかる」
*
別室に戻ったルナは、美咲と松原を真っ直ぐに見た。
「……はっきり言います」
空気が張り詰める。
「黒崎さんの記憶の『核』は、
別の深淵の痕跡に置き換えられています」
美咲の心臓が、強く脈打つ。
「それって……」
「あなた方の言う『深淵の落書き』」
ルナは続ける。
「それが、すでに存在していた――
『過去の空白』に引き寄せられ、今回、
彼の『感情』と『探究心』をごっそり持っていった」
松原が息を呑む。
「じゃあ……所長、前から……」
「ええ」
ルナは頷いた。
「今回が『最初』ではない。
彼は、もっと以前に――探偵になる前か、
あるいは探偵として最も人間的だった頃に、
取り返しのつかない『忘却』を経験している」
美咲は、唇を噛んだ。
(……だから、所長は)
無愛想で、皮肉屋で、
それでも人の痛みにだけは異様に敏感だった。
(もう二度と、同じものを失わないために……)
「美咲さん」
ルナの声が、彼女を現実に引き戻す。
「あなた方にしかできないことがあります」
「黒崎さんが探偵事務所を開く前。
あるいは、彼が最も『人間だった頃』に関わった事件」
「記録から消えかけた事故。誰も語ろうとしなかった真実。
――それらを、徹底的に洗い出してください」
美咲は、静かに頷いた。
「……分かりました」
その声は、震えていなかった。
「探します。黒崎さんの過去にあった、最大の謎を」
胸の奥で、何かが静かに定まる。
(所長。あなたが教えてくれた「真実の観測」を……
今度は、私があなたに返す番)
松原も、覚悟を決めたように拳を握る。
「了解っす。所長が『人』だった頃の記録、全部洗い出します」
*
二人を見送った後、
ルナは黒崎の座っていた椅子に、そっと手を置いた。
「……感情が戻るかどうかは、
その『真実の記録』が、
忘却の代償を上回る価値を持つかにかかっている」
独白。
「探偵の魂を救うのは、論理じゃない。
たった一つの『愛着』……あるいは、
どうしても捨てられなかった『後悔』かもしれない」
その視線の先、誰もいないはずの空間に――
一瞬だけ、黒いインクで描かれたような、
理解を拒む幾何学模様が滲んだ。
まるで、深淵が「次の観測」を許可したかのように。
▶第3話へ続く
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