新・黒崎探偵事務所04-失われた過去への旅――感情を失った探偵と、観測者たちの記録
NOFKI&NOFU
第1話 月詠心療室――空白を観測する者
1.1 新宿に沈む沈黙
――その静けさは――本来なら探偵事務所が、
踏み込んではならない種類のものだった。
耳鳴りがするほどの無音。東京という巨大な生き物の心臓部。
その新宿駅から徒歩数分の距離にありながら、
現実から切り離された建物が、観測不能領域のように沈黙している。
(……ここ、息をしてない)
美咲は自分の内心に浮かんだ言葉に、
ひそかに身震いした。
深夜の廃墟ホテル『黄昏館』。
血と呪文と、名状しがたい何かの気配。
そして――黒崎探偵が支払った『忘却』という代償。
あの事件の直後、松原が半ば必死に探し当てたのが、
この場所だった。
『月詠心療室』
扉に記された文字は柔らかく、
丁寧で、あまりにも人の心を思いやる筆致だ。
だが、その優しさは逆に、
美咲の胸に得体の知れない不安を芽生えさせていた。
(優しすぎるものほど、底が見えない……)
「ねぇ、松原くん。本当にここで合ってるの?」
美咲は声を落としつつも、疑念を隠さなかった。
「オカルトを祓うパラディンで、
勾玉と十字架を同時に下げた精神科医、でしょ?
設定盛りすぎだし、どう考えても胡散臭いよ」
「いや、オレだってそう思ったっすけど!」
松原は両手を振って弁解する。
「でも、所長の『状態』を診られる可能性があるの、
都内じゃここしかヒットしなかったんすよ!
表の顔は普通の心療室、裏の評判は……その、
『人ならざるものに触れた患者専門』っていうか……」
美咲は思わず喉を鳴らした。
(人ならざるもの……それ、
私たちが今まさに関わってきた世界じゃない)
背後でエンジン音が止まり、ドアが静かに閉まる。
黒崎が二人の方を向いた。
「目的地、到着」
抑揚のない声。 あまりにも平坦で、あまりにも整いすぎた音。
「移動時間、十九分。経路誤差なし。
当該建物は、事前に取得した情報と一致する」
「……ほら、こういうとこっすよ」
松原は頭を抱え、黒崎に食ってかかる。
「所長! いつもなら『くだらねぇ』とか、
『こんなとこで治るか』とか、もっとこう……
人間味ある悪態ついてたじゃないっすか!」
黒崎は一瞬だけ松原を見た。 その視線には、怒りも苛立ちもない。
ただ、観測対象を見るかのような無関心だけがあった。
「現在の私の知覚機能および思考プロセスにおいて、
貴君の要求する『感情的反応』は、
行動効率を向上させる要素として認識されない」
淡々とした宣告。それはまるで、
人格を模した精巧な装置が出力した……
システムメッセージだった。
美咲は唇を噛み、そっと視線を落とす。
(違う……こんなの、 私たちの知ってる黒崎さんじゃない)
無愛想で、皮肉屋で、それでも人の死や痛みにだけは、
誰よりも真剣だった探偵。
その『温度』が、きれいに削ぎ落とされている。
松原はスマートフォンを操作しながら、声を潜めた。
「あの《深淵の落書き》……好奇心と一緒に、
所長の人間性までデータ消去しちまった。
そういうことですかね。正直、オレ、ちょっと怖いっす」
美咲も同じ気持ちだった。いや、それ以上かもしれない。
(『失われた記憶』じゃない……
『失われた黒崎』を、私たちは取り戻せるの?)
答えのない問いを胸に抱えたまま、
美咲は月詠心療室の扉に手を伸ばす。
ノブに触れた瞬間、
微かに、冷たい風が指先を撫でた気がした。
それは、深海の底から漏れ出す呼気のように。
人知を拒む何かが、こちらを『観測』しているかのように。
(……もう、後戻りはできない)
静かに扉が開く。
その先で待つ『治療』が、救済か、
あるいはさらなる深淵への招待なのか――
その答えを知るのは、次の瞬間ではない。
1.2 白衣の聖女
――その人物を見た瞬間、美咲は、自分の中にあった警戒心が、
一瞬で軋む音を立てて崩れるのを感じた。
扉の向こうに立っていたのは、あまりにも「出来すぎた」存在だった。
金色の髪は月光を溶かしたように淡く、
碧色の瞳は深い湖面のごとく静まり返っている。
北欧神話の挿絵から抜け出したかのような、
端正な顔立ちの女性が、白衣をまとい、
診察室の柔らかな照明の中心に立っていた。
胸元では、日本の勾玉と、
小さな十字架が重なり合うように揺れている。
(……宗教ミックス、どころの話じゃない)
美咲は思わず喉を鳴らした。 相反するはずの象徴が、
彼女の胸では不思議な調和を保っている。
それは、論理ではなく「位相」で、納得させられる感覚だった。
「お待ちしていました」
その声は、耳に触れた瞬間、心のざわめきを一段階だけ沈める。
「黒崎さん。そして……お二方も」
視線が、美咲と松原に順番に向けられた。
見透かすようでいて、断定しない。観測者の視線だ、と美咲は直感する。
「私は神楽ルナ。月詠心療室の院長です」
「……どうも」 松原が、珍しく言葉に詰まりながら会釈した。
「いや、その……想像してたのと、だいぶ違うっすね。
もっとこう、陰陽師然とした人かと……」
ルナはくすりと微笑む。
「よく言われます。ですが、
心を扱う仕事に、外見の様式はあまり意味を持ちませんから」
(意味を持たない、か……)
美咲はその言葉を胸の中で反芻した。それはまるで、
『人の形』すら仮のものだと言外に示しているようで、
背筋に微かな寒気が走る。
ルナの背後から、控えめに一人の女性が姿を現した。
黒髪で、現代的な雰囲気の、どこか親しみやすい顔立ち。
「えっと……青葉ハルカです」
少し緊張した様子で、美咲たちに頭を下げる。
「ルナ先生の助手をしています。……どうぞ、こちらへ」
その声に、美咲はわずかに救われた気がした。
(この子は……普通、だよね。少なくとも、人間側)
診察室は、清潔で簡素だった。
白と木目を基調にした落ち着いた空間。
しかし、部屋の隅には小さな神棚が設けられ、
焚かれた香の匂いが、かすかに空気を満たしている。
その香りは、記憶の奥底を刺激する。黄昏館で感じた、
あの「深淵の気配」と、どこか似ていた。
(……ここも、境界の上にある)
黒崎は迷いなく椅子に腰掛け、ルナと正対した。
姿勢は正しく、視線は揺れない。
ルナは、じっと黒崎の瞳を覗き込む。
まるで、その奥に空いた「空白」の形を測るかのように。
「黒崎さん。身体的な不調ではなく、
意識や思考の変化を指摘されているそうですが……」
穏やかな口調。だが、その一言一言は、
静かに核心へと近づいていく。
「現在のご自身の状態を、 どう認識されていますか?」
「問題ない」黒崎は即答した。
あまりにも即座で、あまりにも断定的。
「私の『探偵としての機能』は保持されている。
論理演算能力、事実認識能力、記憶参照精度。
すべてにおいて、以前の記録値を上回る」
松原が思わず口を挟む。
「所長、それ……それ、人としてはどうなんすか?」
黒崎は松原を見ない。「評価基準が不明確だ」
ルナの碧い瞳が、かすかに光を帯びた。
「なるほどね」
彼女は頷き、さらに問いを重ねる。
「では、あなたにとって『探偵としての機能』とは、
具体的に何を指しますか?」
「真実の観測と、論理的解釈。
感情というノイズを排した、客観的記録の構築」
「……感情は、ノイズですか?」
「そう定義している」
その瞬間、美咲の胸が、ちくりと痛んだ。
(違う……黒崎さん、 そんなこと言う人じゃなかった)
ルナは静かに、最後の問いを落とす。
「では、その『感情的ノイズ』とは、何でしょう?」
黒崎は、初めて言葉を止めた。
沈黙。
それは、ほんの数秒だったはずなのに、
美咲には、深海で耳が塞がれるほど長く感じられた。
「……現在、定義不能」
黒崎は、慎重に言葉を選ぶ。
「過去のログには、喜び、怒り、好奇心といった記録が存在する。
しかし、それらが『真実の観測』にどのような影響を及ぼしていたか、
関連性を見いだせない」
ルナは、その答えを否定しなかった。
ただ一度、深く、静かに頷く。
「ありがとうございます」
その瞬間、美咲は確信した。
(この人……黒崎さんの「欠けた部分」を、もう見つけてる)
ルナは立ち上がり、美咲と松原に視線を向けた。
「少し、休憩をいただきましょう。
次は……『あなた方の観測結果』を聞かせてください」
その言葉に、香の匂いが一瞬、強まった気がした。
まるで、部屋そのものが耳を澄ませたかのように。
(……観測、されてるのは、黒崎さんだけじゃない?)
美咲の胸に、名状しがたい予感が広がる。
▶第2話へ続く
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