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「一応ここは藍居ビルシステムの管理下からは離れたけど、『仕組み』は生きてる。特に、通ってきたQ号棟までの道程、あれは特に夜に効果を発揮するのはその身を以て体感したよね。距離感の掴みにくい雲が低い夜、労働後の疲労、非日常的な行動、それらの条件下における意識はあるのに自分が自分でないような状態、それにはある程度の解釈できるってこと。お酒なんか飲んでたらもっとそうかもね。ちなみに、」

冬深がこちらを向いて続ける。

「俺はこのルートを毎日通っている。つまり『日常』、単調な風景のバリエーションを知っている。だから催眠状態には陥らない。」

それはそうだろう。しかし、

「お前、僕に対してそれは意図的にそうしたのか? Q号棟までの道程で催眠状態になるように、」

冬深はわざとらしく首を振る。

「まさか。よっぽど条件が揃わなきゃそんなふうにはならないよ。でも、素直に着いてきてくれたのは都合がよかったけど。とはいえ、トラウマのトリガーになる高所を踏み抜いたのは申し訳ないと思ってるよ。高所恐怖症はその傷と関係あるの?」

本当にずけずけと訊いてくる。こいつにはデリカシーとかないのか。ないか。距離感覚おかしいし。


「これは小さいとき、遊具から落ちて切った。」


言葉に詰まる。

本当に「ただそれだけのこと」だから。


実際、そのときの記憶は足を滑らせたときの「あ、」という、もう決定的に何かを間違えてしまったことを一瞬で理解できたことと、支えを失った身体が一瞬浮き上がったように宙に放り出される感覚だけだった。地面に叩きつけられた。砂のにおい、あたたかい昼下がりの地面、半身の痛みとは別に、遊具から飛び出していたボルトか何かに運悪く引っ掛けて裂けてしまった、さっきまで頬だった箇所は燃えるように熱く、とめどなく口のなかに流れ込んでくる鉄錆のような味、おおよそ小さな子供に受容できる感覚を大きく超えたそれらに耐えきれず、そこから先のことはよく覚えていない。


気がつくと病院のベッドにいた。

頭がぼーっとして、ずっと眠っていたからなのか、麻酔が抜けていないからなのかわからなかった。

午後、面会に来た母は少し困ったような顔をして、何を言っていいのか分からないようだった。


普通に死んだと思っていたので自分が生きているのが不思議だった。


口の横の傷は縫われていたが、跡は残った。

場所が場所だけに、鏡を見る度に気になった。


事故以来、両親の僕への態度はどこかよそよそしく、まるで腫れ物を扱うようだった。

事情を知っている同級生たちは心配してくれたが、歳と共に環境が変わっていくにつれ、僕の傷の事について知る者は少なくなってきた。関わらないようにしてくれるならまだしも、中には変に絡んで来る人間や過剰な同情を向けてくる人間もいた。その全てが煩わしかった。


僕はマスクが手放せなくなり、ホームセンターの電子部品コーナーで押しボタンスイッチを買った。


日常においても、ふと、高所のような足元が不安定な場所に来ると時折、あの「決定的に何かを間違えてしまった」感覚が一瞬で全身に蘇ってきてその場から動けなくなることがあった。

その頻度は徐々に増し、学校に通うことも難しくなった。学校は中退した。


通信制の学校で高校の卒業資格を取り、仕事は通勤路に高低差のない、平らな建物である工場を選んだ。マスクをしていても誰も気にしない。社宅は1階の部屋。


僕は平らな世界を生きていた。

時折遠景の街を静かに破壊して。


「入瑞、この世の終わりみたいな顔してるね。」

暫く黙ったまま俯く僕に冬真は言う。

「ここは世界が終わったみたいな場所なんだろ。ぴったりじゃないか。」

「はは。確かに。ほんと入瑞は面白いね。」

僕は何も面白くなかった。

「僕は遊具から足を滑らせたときに死んでしまったんだ。人として大切なものが欠けたまま人間のふりをしている死体と変わらないものだから、自分がいるべき終わってしまった場所を求めているんだきっと。」


世界を壊したいと願いながら、間違っているのは僕の方だということを嫌という程分かっていた。


そういえば、


「なぁ、お前さっき、その、腹刺されたとき死んじゃえばよかったとか言ってたよな。」

僕が訊くと、冬真は少し眉を上げた。

「入瑞が自分の傷のことをつまらないと言っているようなつまらないことだよ。」

知らない人間から腹を刺されるというのは、遊具から落ちるよりもよっぽど衝撃的なことだと思うが。


でも、抱えた痛みに大小や優劣があるのならば、それよりも大きな他人の痛みを前にしたとき、この苦しみは全く無意味なものになるのだろうか。


冬真は僕から目を逸らし、また壁の方を向いて少し俯いた。


「他人にとって、傷や痛みは等しく下らなくつまらなく無意味なものだ。そこに優劣も大小もない。ただ苦しみだけがある。僕の傷もお前の傷もつまらないよ。」

「何、励ましてくれんの?」

「悲劇のヒロインぶってんじゃねーよってこと。」

「俺ヒロインなの?」

「うるせぇなほんと。」

そう言うと、また冬真はへらへらと笑った。

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