5
「なぁ、今日雨なんか降ってたか?」
前を行く冬深に訊いた。
「ここら辺は地下水が染み出てきて、年中こんな感じだよ。地盤が弱いのかな。入居したての頃はこんなんじゃなかったんだけど。今日はまだ全然少ないほうだよ。それこそ雨が降った後とかは道路が冠水してる。」
「冠水して、どうやって帰るんだよ。」
「膝まで水に浸かって帰る。」
「マジか。」
「マジマジ。大マジ。ま、罰だからね。」
冬深はこともなさげに言う。
膝に浸かるほどに水が溢れるのか、ここは。
近付くにつれ、水溜まりは鏡のようにギラギラと赤い光を映し出した。そんなはずはないのに、足を踏み外したらどこまでも底なしに落ちてしまいそうだ。
深さがあろうがなかろうが、とても足を突っ込む気にはならない。
「入瑞は『パンを踏んだ娘』って知ってる?」
「あぁ、なんか、公共放送の、教育番組の、不気味な歌のやつだろ。」
「なんか違うけどまぁ大体合ってるからいいか。あれは水溜まりで足が濡れるのが嫌でパンを踏んで渡ろうとしてそのまま地獄に落ちるわけだけど、パンを踏んだ程度で地獄に落ちるのはやりすぎだと思う? それとも食べ物を粗末にしているんだから地獄に落ちるのは妥当だと思う?」
パンを踏むことは確かによくないことだが、パンを踏んで地獄に落ちるなら、僕は何回地獄に落ちればいいんだろうか。
「罰は罰と認識しなければ罰にならないから、罪と罰は等価にならないんじゃないか。妥当かどうかはパンを踏む罪に対する価値観が各々違うからわからない。」
「なるほどね。」
冬深は訊いておいてあまり興味無さそうに言った。
「まぁ、ここには踏むパンもないし、今日は冠水していないから、俺の後ろ着いてきたらよっぽどのことがなければ水溜まりに足を突っ込むことはないと思うよ。水溜まりにはクセがあるから、大体同じような場所にできる。平らに見える道でもパッと見分からないデコボコがあるってわけ。でももう、この道なら目をつぶってだって歩ける。」
流石にそれは言い過ぎだと思った。
僕は高いところが苦手だった。
正直、深さも分からないような闇を映した水溜まりを見ていると足がすくむ。
穴ではない。アスファルトに溜まった水。
頭ではそう理解していても、この異常な状況下で本能がそれを拒否していた。
「ん? どしたの入瑞。疲れた?」
動かない僕を変に思った冬深が訊く。
「いや。」
確かに疲れてはいたが。
「なんか、ただの水溜まりなのは分かってるのに、ちょっと通っていくのが、嫌というか。」
ちょっとではない。正直かなり嫌だ。
「じゃあ入瑞が目をつぶって。俺が水溜まり避けて引っ張ってくから。」
「本当に大丈夫なのかよ、、、」
「じゃ、やめる?」
今更ここまで来て引き返すのもどうかと思った。そもそもなぜ僕はそこまでしてQ号棟を目指しているのか。
ただ、漠然とずっと求めているものがそこにはある気がした。
終わりのない寂寞の中にいればきっと本当の意味で心が安らぐのではないかと。
「目をさ、目を瞑れば、見えなくなるから。無いのと一緒だよ。」
黙り込んだ僕に冬深は言う。
僕は目を閉じる。手が引かれる。
乾いたアスファルトを踏む靴底の感覚と熱を帯びた手、コンクリートの谷に反響する2つの足音が耳に痛いほどに大きく聞こえる。
目に見えないのは無いのと一緒。
それは想像力のない人間の言うことだ。
足を動かさなければならないのは、手を引かれているからで、止まれば転んでしまう。
いつ足を踏み外すのか、今この手を引いている人間は果たして冬深なのか、このままいつまでも歩き続けるのではないか。
それはひどく長い時間に感じられた。
「入瑞、もう目を開けていいよ。」
冬深の声がして、僕は恐る恐る目を開けた。
目の前には僕の手を握る冬深と乾いたアスファルトがあった。
後ろを振り向くと、水溜まりの群れが相変わらず赤い瞬きを繰り返している。
外の空気は冷えきっているというのにひどく汗をかいていた。動悸がおさまらない。
「行こっか。」
その言葉に僕は少し頷いて、また手を引かれながら歩きだす。
水溜まりを越えたあとのアスファルトは少し荒れて、ところどころひびが割れていた。
水溜まりの箇所の地盤が若干低くなっているせいか、そこから水が湧いているということもない。
不自然に隆起した地面、明かりのないコンクリートの壁と化した住棟、その中で唯一明滅を繰り返す鉄塔のランプ、手入れがなされずそこかしこに生えた背の高い草、汗ばんだ手、ひび割れたアスファルトを蹴る音、前を行く銀髪の男。
「今O号棟を過ぎたあたりだからもうすぐ着くよ。ほら、あの右側の。」
見ても見なくてもどうせ似たような建物しか並んでいないのだから、冬深の指差した先を見ることになんの意味も感じられなかった。
僕は俯いて、ただ繋がれた手を見ていた。
「入瑞? さすがに疲れたよね45分も歩いたら。」
鉄塔の間をくぐり、常夜灯の消えたひとつの住棟の入口の前に辿り着く。
「建物の中、暗いから気を付けて。」
屋内は外にも増して暗かった。
暗いなんてものじゃない。墨汁の満たされた水槽のような闇。
引かれた腕の先から溶けていく。吸い込む空気でさえも色がついている気がして、気管支や肺や血液さえも黒く染まっていくようだった。
しかし、さっきの水溜まりの群れの中を通るときの恐怖を思えば、こんなものは大した問題ではなかった。不思議と落ち着くような気さえしてくる。
暗闇には高さがない。
冬深はさっきの水溜まりも「目を瞑っても歩ける」ぐらいなのだから、建物の中も普通に歩けるのだろう。
生ぬるい暗闇の中、床も壁もわからなくなって、繋がれた手さえもどこかに溶けてしまったような気がした。
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