4
ウミウシのような橋を渡り、社宅の
「おい、社宅着くからマスク返せ。」
「こんな時間に誰もいないでしょ。」
「うるさい。返せ。」
「じゃさ、俺ん家着いたら外して。」
冬深が返してきたマスクを空いている方の手で着け直す。
「なぁ、Q号棟まではどれぐらい掛かるんだ。」
「徒歩45分。」
「・・・・・・その距離、毎日通ってんのかよ。」
「歩くのは健康にいいからね。工場勤務は運動不足になりがちだし。」
とはいえ45分も毎日歩くのは異常だと思った。そしてこれから僕はその距離を歩くのだった。全く、何をやっているのだろうか。
冬深は僕の手を引いたまま、社宅の
元団地には大袈裟な
コンクリート打ちっぱなして造られた、ダム、或いは高速道路の橋脚を思わせるそれは、セキュリティが厳しいというわけでもなく、『入口/出口』以外の役割を与えられない。無意味に巨大なオブジェクトとして威圧感を放ちながらそこに存在する。
本当に元々ここは団地だったのか奇妙に思える構造だが、こんなんだから入居者も集まらなかったというのも頷ける。
僕の手を引きながら少し前を歩く冬深が言う。
「あんなに嫌がってたからまさか来るとは思わなかった。」
「僕はお前の住棟より手前に住んでんだから、バレるだろ。家が。」
「家バレが嫌だからって嫌いな奴の家に行くっていう思考ヤバいよ。」
そうなのか?
僕にはその感覚かよくわからない。
「さっき、Qのあたりは誰もいないって。世界が滅んだあとみたいだって言ってただろ。僕はそういう場所に行きたい。」
「スイッチで街爆破してたもんね。」
「してない。」
「やっぱ入瑞と俺は似てるよ。」
「似てない。」
住棟は
その両側は奥の住棟に向けて真っ直ぐに伸びる通路となっている。車も通れるように幅員が広く取られているが、工場勤務の人間で車を持っている者は少ない。車が買えるような稼ぎがあればそもそも工場で働いてなどいない。当然徒歩で通勤している冬深も車どころか自転車すら持っていないだろう。
この奇妙な構造の団地も、そもそもは自家用車を持っている経済レベルの人間向けのものだと考えれば納得できる。住棟と住棟の間には、車が1台も停められていない広い駐車場がある。
かつては団地の中にバスを通す計画もあったようだが、工場に買い取られてからは立ち消えになったと昔聞いた気がする。
右には鉄塔、鉄塔、鉄塔、鉄塔、鉄塔、左には住棟、駐車場、住棟、駐車場、住棟、駐車場という歩いても歩いても終わらない悪い夢の中のような光景が続く。
「お前さ、毎日こんな光景を見ながら通勤してるわけ?」
「そうだよ。罰ゲームみたいだろ。」
「なんでわざわざそんな。」
「そのまま罰だよ。ゲームじゃなく。罰。ま、その辺は家に着いたら教えたげるからさ。」
肝心なことははぐらかされ続ける。
腹の傷のことや僕に付きまとう理由、自罰を科す理由。
恐らくそれを知ったところで、僕は何も変わらない。
団地の壁に取り付けられた青白い常夜灯の明かりは奥に行けば行くほど光が弱くなっていく気がした。
「距離感覚がわからない。」
「今半分くらい。入瑞には同じような景色に見えるかもしれないけど、毎日歩いてたらある程度自分がどこにいるかわかるようになるんだよ。っていうか、住棟表示見れば分かるんだけどさ。今暗くてよくわかんないか。」
確かに、住棟表示を見ればよかったのだ。
「暗いだろ。一応送電線が走ってるから電気は来てるけど、Mを過ぎると間引かれて今よりももっと暗くなるよ。送電線の赤ランプのほうが明るいぐらいだ。ホラー映画みたいな風景になる。」
「映画は見ないからよく分からない。」
「マジか。水族館や映画のない人生楽しい?」
「人生を楽しもうと思っていない。楽しむ資格がない。」
「そりゃそうか。それが入瑞の罰か。」
「そうかもな。」
確かに、これは僕に課せられた罰なのかもしれない。
どれぐらい歩いたのだろう。
常夜灯は3棟に1つ点っていればいいほうで、当然窓に明かりはひとつも灯っていない。
鉄塔の真っ赤なランプだけが視界を僅かに照らしている。照らす、なんて言葉はまるで相応しくなかった。月のない夜、なにか巨大な生き物の腹の中、赤いランプが呼吸をしているのが透けて見える。そんなふうに思えた。
冷えきった夜の空気の中で冬深に引かれる手だけが変に汗ばんで熱を持っている。
幸い(全く『幸』の要素は無い)、真っ直ぐ闇の奥へ続くアスファルトだけは常に平坦だったので、光がほぼ感じられない中でも転ばずに歩くことができている。
何故嫌いな人間に手を引かれ歩いているんだ僕は。
常夜灯の灯りが完全に視認できなくなった頃、それと入れ替わるように路上にいくつもの穴が空いている。
いや、闇の中で穴が見えるわけがなかった。
それはおびただしい数の水溜まりだった。
水溜まりに赤いランプが映りこんで、アスファルトに穴が空いているように見えたのだ。
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