フライパン女

階段を上る。

住み慣れた家だ。階段を上るのに、足元を気にする理由はない。


すると、コツン。脛に何かが当たる。

何だろうと目を向ければ、そこには黒々とした太い柄が突き出している。

フライパンだった。


階段の踊り場に置かれたフライパン。落とし物ではない。

明白な意思の元に置かれたもの。買ってきたそのままのパッケージに包まれて、私を待ち伏せていた。


なぜこんなところに、フライパン?


疑問に思いつつ、階段を上りきる。

すると、また当たる。


嫌な予想を裏切らない、二個目のフライパン。

またキミか。


改めて見回すと、キッチンという本来の拠り所を失ったフライパンたちが、場違いな階段にいくつも配置してあった。


「どうして階段に置くの?」と尋ねると、パンダ嫁のP子は洗い物をしながら「予備だから」とだけ言った。


予備、という言葉には説得力がある。

どこにあってもよく、使われなくても問題がなく、その一言ですべての説明を終わらせてしまう特別な圧がある。


私はそれ以上聞くのをやめた。階段を上るときは、フライパンに注意を払えばいい。この家の安寧を保つための、初歩的な生活の知恵だ。


新しいフライパンを使い始めた日のP子は、明らかに様子が違う。

鼻歌が漏れ、食材を返す動きは軽やかで、油の跳ねる音までが楽しそうに響く。


フライパン一枚で、ここまで人は整うのかと感心する。

P子に、サウナは要らない。


新品を下ろした後、しばらくすると、階段には、また新しい「予備」が一本増えている。

そうしてついに、私は理解した。

P子は「フライパン女」なのである。


だが、私はそんな彼女を「変なヤツ」と笑うことはできない。

投げたブーメランは、めざましいスピードで戻って来て、私の脳天を直撃する。


なぜなら、私は家中の至る所――階段の窓、トイレの棚、ベッドの横、書斎机の引き出しなどなど――に、テスターを忍ばせているからだ。


テスター。

それは電気マニアが手放せない、あの小さな愛らしい測定機器。

もちろん、誰かさんと違って「予備」ではない。そこにあるべき、れっきとした理由がある。


屋内の要所要所に、小さな太陽光発電パネルを仕込んである。私は、常に電圧と電流をチェックしておきたいのだ。

あちこちにテスターが置いてあれば、至極便利。なにしろテスターを首から下げて歩かずに済む。なんと合理的なことか。


P子が、フライパン女なら、私は、テスター男。その自覚はある。


フライパン女とテスター男が暮らす我が家。

それは、互いに譲り合う、絶妙なバランスの上に成立している。

これでいい。そう満足していた。


だが今日、階段に雪平鍋が加わった。

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パンダ嫁P子との日常 柴田 恭太朗 @sofia_2020

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