◆ episode6.

彼女が一歩、近づいた。

私は反射で動きかけて、止めた。

ここは私の役割じゃない。

私が入ったら、九条さんは“いつもの型”に逃げる。

整えられた沈黙に戻る。

そうしてしまうのは、私だから。


彼女が言う。


「あなた、ほんとに……自分のことわかってないよ」


震えているのに折れない声。

怒りと、悔しさと、見捨てない熱。


そして、言った。


「あなたは——特別なの」


その言葉が落ちた瞬間、世界が止まる。

街灯の光も、冷えた風も、遠くの車の音も。

止まったのは世界じゃない。

九条さんの中の“何か”だ。


九条さんは、ゆっくりまばたきをする。

子どもみたいな声で返す。


「……特別?」


私はその声を聞いて、胸の奥がきゅっとなる。

この人は“特別”という言葉が嫌いなんじゃない。

“特別”という言葉を信じたいのに信じられない。

その矛盾で、ずっと生きてきた。


彼女は視線を逸らさない。


「そう。特別。自分が思ってるより、ずっと」


私は一歩下がった。

ふたりのあいだに、私が入れない熱が生まれていく。

それは恋の熱じゃない。

契約みたいな熱。

生きろ、という熱。


九条さんが刃のように言う。


「いまさら言われても、なんも響かねぇよ。

天才だ、才能だ、特別だ……もう聞き飽きた。

そんなもんで救われるわけねぇだろ」


救われる。

その言葉を自分の口で使ったことに、

本人だけが気づいていない。


彼女が落とす。


「あなた、“特別”って言葉が嫌いなんじゃない。

本当は、それをいちばん信じたいのに、いちばん信じられないだけ」


空気が裂ける。

私は目を閉じそうになって、開いたまま耐えた。

この瞬間を見逃したら、私はまた“燃料係”に戻ってしまう。


彼女はさらに踏み込む。

褒めるためじゃない。救うためでもない。

“生きろ”と殴るための言葉。


九条さんの顔が揺れ、そして、揺れたまま逃げない。

逃げられない。

彼女は逃がさない。

九条さんは、その無慈悲さにだけ反応する。



……地獄だった。


二人のあいだでぶつかる気配は、

火花とか緊張とか、そんな次元じゃない。

“核”と“核”がぶつかっていた。

人間が生きている場所の、ほんの少し外側で。


離れて見ているだけで、呼吸が乱れる。

足は震えているのに、動かせない。

止めに入るべきか、と頭が一度考える。

でも次の瞬間、分かってしまう。

止めたら、全部が薄まる。

止めたら、九条さんはまた“いつもの顔”に戻れる。

戻れてしまう。


彼女の言葉が投げられるたび、世界が少しずつ軋む。

そのひとつひとつが九条さんの心臓だけじゃなく、

私の胸にも刺さった。


まるで——自分に言われているみたいだった。


九条さんの呼吸が荒くなるたび、

彼女が追い込むたび、

二人の間に立ち昇る“破壊の気配”が、

なぜか私の内側にも触れてくる。


なにこれ。

どうして。

私には関係ない。

そう思ったのに。


胸の奥から、

自分でも見たことのない感情が、じわじわ浮かんできた。


壊したい。


私も。


私だって——壊したい。


壊れたい。

壊されたい。

いまの自分を、役割も、過去も、期待も、ぜんぶ。

きれいに整えてきたものを、いったん終わらせたい。


痛いほど素直で、どうしようもないほど本心の破壊欲。

それはずっと封じ込めていた影だった。

気づきたくなかった。

認めたくなかった。


でも今、この地獄を前にして、

彼らの戦いを見ているうちに、

私の内側でも火がついた。


“壊す”って……こんなに美しいの?

“壊れる”って……こんなに救いなの?


九条さんが、震える声で言う。


「やれよ、最後まで。」


その瞬間、私の胸も同じ熱で燃えていた。

誰にも言えない声が、喉の奥で震えた。


(私も……壊したい。壊れたい。

全部、一度終わらせたい。ここで。今。)


彼女と九条さんの対峙は、たしかに地獄だった。

でも——

その地獄の炎は、私の中の何かも確かに焼き始めていた。

そして九条さんが、低い声で言う。


「……責任とれよ」


その二文字が、夜の底で鳴った。

恋でも喧嘩でもない。

もっと原始的な、契約の音。


その瞬間——私は、胸の奥で何かがほどけるのを感じた。

ああ、やっとだ。

この人は“誰にも拾わせない”をやめた。

拾って、ではない。

せめて“落ちる音”を聞かせることを許した。


それだけで、救いになる。


そして不思議なことに、私は怖くならなかった。

恐怖じゃなく、透明になっていく感覚があった。

余計な感情が剥がれて、核心だけが残るみたいに。


この場面で私がすべきことは、整えることじゃない。

壊さないこと。

邪魔しないこと。

そして、自分の内側で配置を確定させること。


競合しない。奪い合わない。

その配置が決まった瞬間、胸の奥がふっと軽くなる。

そして、私自身の役割がほどける。


私は気づく。

ずっと、九条さんのことを“好き”だった。

その好きは、敬意と熱と、少しの惚れと、

長い夜の連続でできていた。


でも今、変わる。


恋がほどけて、友愛に変わる瞬間は派手じゃない。

ただ、視界が少し明るくなる。

肩の力が抜ける。

呼吸が深くなる。

世界が「このまま続く」と思える。


私はその瞬間を、今夜、見た。


九条さんは、彼女に殴られて生き返りかけている。

そして私は、その生き返りを心から良かったと思っている。


嫉妬じゃない。

勝ち負けでもない。

ただ、応援。


——あなたが生きるなら、私はそれでいい。

——あなたが笑えるなら、私はそれでいい。


それが恋より深いところから出てくる感情だと知って、少し驚く。

同時に、安心する。


私はこの人と、戦友として歩ける。

今までより、ずっと優しい形で。

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