◆ episode7.

パリの深夜で、ひとつの火花が落ちたあとだった。


空気が張りつめて

誰かの言葉が誰かの骨に当たって

それでも最後には、ちゃんと息が戻る。


――そういう夜の終わり方。


九条さんは、少しだけ肩を落としたまま

歩道の端で手をポケットに突っ込んでいた。


怒っているふりも、冷静なふりも、どちらも中途半端で。

その中途半端さが、今夜は珍しく“人間”に見えた。


ふいに、九条さんが言った。


「……ジェラート食って帰ろうぜ」


一瞬、耳が聞き間違えたのかと思った。

この温度で、その単語。

あまりに現実で、あまりにくだらなくて

だからこそ救いだった。


彼女が、信じられないみたいに眉を上げる。


「この寒さで?」


九条さんは、何でもないみたいに吐き捨てる。


「冷たいほうが頭起きんだよ。……生き返ったし」


生き返ったし。


その言い方が軽すぎて、私は逆に笑いそうになった。

笑っていいのだと、夜が言っている気がした。


「……情緒どうなってるんですか」

私が言うと、九条さんは鼻で笑う。


「うるせぇ。お前も来い」


“お前も”。


命令みたいなのに、置いていかない言い方。

その微妙な差を、私は聞き逃さない。


ジェラート屋の灯りは

パリの街灯より少しだけ白かった。


夜の灰色を薄く洗い流すような光。

ガラスケースの中で色が並んでいて、

それが妙に静かで、きれいで、現実だった。


九条さんは迷いもなくピスタチオ。

彼女はカカオ。

私は一瞬だけ悩んで

ホットチョコレートを選ぶ。


「リサ、ジェラートじゃないんだ」

彼女は小さく笑う。


「冷えた夜のあと、身体を冷やさないのも仕事なので」

そう返したら、九条さんが「お前らしい」と短く言った。


それが、褒め言葉なのかどうかは分からない。

でも今夜は、どちらでもよかった。

“お前らしい”と認められるだけで、胸の奥が少しほどける。


小さなテーブルに三人で座る。

スプーンがカップに当たる音だけが、静かに響く。

外の冷えた空気がガラス越しに揺れて

店内のぬるい暖気が、肌に少しだけ戻ってくる。


しばらく誰も喋らなかった。

喋らなくていい沈黙だった。

言葉が過剰になると、この夜の美しさが薄まる。

そういう沈黙がある。


九条さんが、ひとくち食べて、短く息を吐いた。


「……うま」


それだけ。

でも、その“うま”に、

さっきまでの「帰りたくない」が溶けていた。

生きる側に戻ってくる人間の、くだらない感想。

私はそれを聞いて、胸の奥で静かに頷く。


私はホットチョコレートのカップを両手で包んで、小さく言った。


「……美味しいね」


それは味の話じゃない。

“こうして座れている”という事実の話だった。


九条さんが一瞬だけこちらを見る。

何か言いそうで、言わない。

代わりに、またスプーンを動かす。


その顔を見ながら、私は思う。


——火花は、彼女が起こす。

——私は、その火が燃え続ける地面をつくる。


今夜、その配置が決まった。

悔しさではなく、安堵として。

そして同時に、私の輪郭が戻ってきた。


私は“脇”にいる人間ではない。

ただ、目立たない設計で場を成立させてきただけ。


熱を現実へ翻訳することは、補助ではなく創造だ。

その自覚が、胸の奥で静かに灯る。


店を出ると、パリの空が変わり始めていた。

まだ明るくない。

でも、

夜の黒がほどけて、街全体がいったん灰色になる。


冬のパリの灰色は、

薄い雲の重さと、濡れた石畳の冷たさと、

街灯の残り火でできている。


そこに、遅れて青が滲む。

いきなり鮮やかにはならない。


まず一滴だけ。

呼吸の端に触れるくらいの青。


私たちの影は長く、三本並んで伸びていた。

並ぶだけで、何かが確定してしまう影。


九条さんが、眠そうに肩をすくめる。


「さみぃー……ねみぃ……」


その普通さが、なにより救いだった。

さっきまで世界の端を覗いていた人が、今はただ寒いと言える。

その程度の言葉が、人生を続けさせる。


空の端に生まれた青を見て、

私は胸の奥でひとつ区切りをつける。


恋がほどける音。

役割が終わる音。

そして、その代わりに残るものの音。


——応援している。心から。

才能じゃなく、人生を。


それは湿った愛情じゃない。

相手を変えたいとも思わない。

ただ、相手が生きていくことを願う。

その願いが、驚くほどあたたかい。


九条さんが足を止めて、遠くを見る。

灰色の空の下で、青が少しずつ増えていく。

その青の中で、九条さんは彼女を呼んだ。


「ミラノ、お前も来るよな。まつり」


“名前”が、まっすぐに落ちる。

それだけで、未来が動く。


まつりが、短く頷く。


「うん」


その返事の軽さが、重い約束みたいに聞こえた。

保証なんてどこにもないのに、なぜか小さく未来を信じさせる。

“また明日”と同じ種類の言葉。


九条さんが、もう一度歩き出す。

私も一歩遅れて、その歩幅に追いつく。


灰色のパリの上に、青が滲んでいく。

その色の変わり方が、私の内側と同じだった。


不毛がほどけて、再生になる。

依存がほどけて、仕事になる。

恋がほどけて、友愛が残る。

そして私自身も、特別の側に立つ。

静かに、確かに。


夜明けの青は、まだ薄い。

でも、薄いからこそ嘘がない。


私はその青を胸の底に抱えたまま、

ミラノの方向へ歩いた。



──第二部 第三章:「灰色と青」終


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『光の底』<2部>第三章リサSide:灰色と青 @manitoru

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