◆ episode3.
パリの夜は、余計なものまで少しだけ綺麗にしてしまう。
だから私は、音を立てないように歩く。
やさしいふりをする夜。
濡れた石畳は街灯の光を受けて
正しく見えるほど正しくきれいで
空気にはほんの少し甘さが混ざる。
この街にいると、
どんな終わりもロマンチックに見えてしまうから厄介だ。
実際は、そんなに美しいものじゃないのに。
彼女の「また明日」が、まだ耳の奥に残っている。
あの軽さ。
未来を保証しないのに、未来だけを置いていく言葉。
スマホが震えた。
九条:「部屋」
私は返事をしないまま、エレベーターに乗った。
返事をしないまま動くのは、珍しいことじゃない。
この人といると、言葉はいつも少し遅れてやってくる。
廊下は静かだった。
カーペットが足音を飲み込むぶん、
自分の心臓の音だけがはっきりする。
鼓動が、夜の空気に触れて少し大きくなる。
ノックは一度だけ。
ドアはすぐに開いた。
部屋のドアが閉まった瞬間、空気が変わった。
香水でも酒でもない。もっと乾いた匂い。
「さっきまでの会話」と「ここからの沈黙」を、
きっぱり切り分ける匂い。
部屋は暗い。
窓の外の灯りだけが薄く差している。
九条さんはシャツのまま立っていて、目の下に疲れが残っていた。
仕事の疲れじゃない。
生き方の疲れだ。
彼は何も言わずに、私を引き寄せた。
触れ方で分かる。
熱がある夜と、熱を探している夜。
今夜は、後者だった。
いつもの角度。
いつもの速さ。
いつもの夜の処理。
肩に落ちた手は正確なのに、どこにも定着しない。
髪に触れる指が迷っているわけじゃない。
迷うほどの意思がない。
触れているのに、不在。
私は、手首に指を添えた。
止めるための強さじゃない。
ただ、少しだけ方向を変えるための触れ方。
彼が眉を寄せる。
「なんだよ」
私は視線を上げないまま言う。
「今日は、やめよ」
手が止まる。
止まったあと、いつもなら苛立ちが来る。
でも今夜は、その前に空白が来た。
息を吸い損ねたみたいな、短い空白。
「何しに来た」
勝つための言葉。
逃げるための言葉。
自分で終わらせるための言葉。
私は少しだけ息を吐いた。
彼女の“理由がない”を思い出すと、逆に落ち着けた。
理由を積まなくても、いまここに立てる夜がある。
「確認」
「何の」
「生きてるか」
九条さんは笑いかけて、笑いきれない。
その表情が、今日は嘘じゃない。
嘘にしないまま、そこにいる顔。
私は続ける。
「寝ましょう。明日のために。」
何も言わない。
ソファに腰を落として、目を伏せた。
負けじゃない。
ただ、力みが抜けただけの沈黙。
部屋の空気が、ほんの少し軽くなるのを感じる。
“夜で誤魔化す型”が、一回だけ外れた。
それだけで、十分だった。
ドアの前で言う。
「……また明日」
九条さんは一拍遅れて、低く返した。
「……ああ」
その返事に、私は初めて安心する。
天才の返事じゃない。
人間の返事。
窓の外で、車がひとつ走り去る。
雨上がりの光が一瞬揺れて、消える。
パリの夜は、何でもなかった顔をして、静かに進む。
私たちの関係も、同じだった。
廊下に出ると、夜気が冷たい。
でも、その冷たさは悪くない。
終わりをそっと冷やして、
始まりだけを残してくれる温度だった。
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