◆ episode2.
シャンパンの泡が、
グラスの底から細い光の粒になって上へ流れていく。
パリの夜の照明は強くないのに、
泡だけはやけにきれいに見えた。
きれい、というより、逃げ足が速い。
触れようとした瞬間にもう形が変わる。
泡の軌跡を目で追っていると、彼女の口が、ふっと勝手に動いた。
「九条くんと出会ったのはね、
わたしがもっとむき出し、
みたいな感じだった頃。」
軽く言ったように見えたのに、
言い終わったあと、彼女の中で何かを掘ってしまった空気が残った。
その空気は、言葉になった瞬間にどうしても滲む。
だからこそ、彼女は少しだけ目線を泳がせて、また泡を見る。
私は、視線を寄せた。
興味というより、重さに引かれてくるような、静かな集中。
この人が今、何を差し出したのかを、雑に扱いたくなかった。
彼女は続ける。
「1年間音沙汰ない時もあれば、
月に何回も見るときもある。
同じ場所にいるときは、話すときもあるけど
話さない日は本当に一言も話さない。
そういう関係。」
説明しているのに、説明した気がしない。
でも、こういう曖昧さは、私にはむしろ正確に聞こえる。
九条さんのまわりで起きる「説明不能」は、たいてい曖昧の形をしている。
曖昧なのに、外れない。
「今回も、“パリ行く”って言われて。
じゃあ、わたしも行くって、それだけで来た。」
“それだけ”という言い方が、軽いのに重い。
動機としては穴だらけで、行動としては妙に迷いがない。
理由がないのに、迷いがない人。
それが彼女の輪郭なのだと、少しずつわかってくる。
彼女は自分でも、普通じゃないかも、と気づいている顔をした。
けれど私が否定も突っ込みもしないことを、
最初から知っているみたいに、話を続けた。
理解より、許容を優先する沈黙が、私の中にあることを見抜いている。
「でね。」
声が、勝手に静かになる。
「彼と話した内容とか、何を一緒にしたとか……
ほとんど覚えてないの。」
私は、笑わなかった。驚きもしなかった。
むしろ、ああ、と思った。
九条さんという人間の周りでは、
記憶が“出来事”として残らないことがある。
残るのは、温度とか、匂いとか、体内の音みたいなものだけ。
彼女はたぶん、そういうところで九条さんと繋がっている。
「……だからね、聞かれてもわかんないの。」
その言葉は説明じゃなく、ただの事実として落ちた。
肯定も否定も、誰の感情も巻き込まない温度で。
「どうしてパリに来たかなんて、ほんと理由がないの。
後付けならいくらでも言えるんだろうけど……
実際は何もなかった。」
私は、その“何もなかった”が、
嘘じゃないとすぐに分かった。
欲望でも憧れでもなく、
呼吸みたいに、ただ“来た”。
「変でしょ?」
彼女は笑おうとして、笑いきれなかった。
私は首を振らない。肯定もしない。
ただ、受け取る。
受け取るという行為だけで、会話が成立する夜がある。
彼女はグラスを指で回す。
泡がまた、上へ逃げていく。
「でもね……そういうときのほうが正確なのよ、わたしの場合。」
理由がないほうが外さない。
説明できないほうが妙に合ってしまう。
行き先のほうが先に決まっていて、意思は後から黙って追いつく。
彼女はそれを、自分の欠点としてじゃなく、性質として語った。
私は目を細めて、静かに頷いた。
評価も判断もない。ただ重力だけがある頷き。
こういう話は、解釈してしまった瞬間に遠ざかる。
私は、届く前の距離で受け取りたかった。
彼女がそこまで言葉にしない部分も、なぜか伝わってしまう。
理屈じゃない。空気の揺れで意味が来る。
私はそういう受け取り方を、ずっと現場で鍛えてきた。
次の瞬きまでの静寂が、彼女の説明より正確に応答していた。
「なるほどね。」
それだけ言うと、彼女の肩がほんの少し落ちた。
落ちたというより、息が抜けた。
「……“会えばわかる”って、そういう意味だったんだ。」
言った瞬間、彼女が笑った。
初対面に近い相手に、こんな話を投げて、
それが通ってしまう不思議さに自分でも笑っているみたいだった。
「本人だって説明できないと思うよ。ああいうのは。」
彼女がそう言ったとき、私は少しだけ口元をゆるめた。
九条さんの眉間の皺が、勝手に頭に浮かぶ。
たぶん彼は、理由もわからないくせに、あの顔をする。
そして結局、何も説明しない。
でも今夜は、その無説明が初めて“優しさ”にも見えた。
・
おひらきになった。
グラスの余韻も、人の声の残り香も、
ゆっくり薄まっていく時間。
パリの夜は、終わり方が静かだ。
出口の前で、私は軽く手を上げた。
「じゃ、また明日。」
すると彼女は、自然に同じリズムで返した。
「うん。また明日。」
明日。
その二文字が、胸の深いところに触れた。
“また明日”って、こんなにいい言葉だっただろうか。
保証なんてどこにもないのに、
なぜか小さく未来を信じさせる。
それがこの人の「普通」なのだと思った。
普通なのに、未来を置いていく。
外に出ると、パリの夜景は少し冷えていた。
石畳に落ちる灯りが、ゆっくり滲んでいく。
風が髪を撫でるたび、
今日という日が静かに裏側へめくれていく感じがした。
街は呼吸している。
その呼吸に、私も混ざっていく。
彼女の「また明日」が、まだ耳の奥で響いている。
軽いのに、軽くない。
続きがある、という感覚だけが、こっそり沈んでいる。
私はその温度を抱えたまま、
明日の現場の段取りを頭の中で整えながら、
それでもどこかで、少しだけ、救われていた。
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