『光の底』<2部>第三章リサSide:灰色と青

@manitoru

◆ episode1.

その朝のパリは、白かった。


冬の曇り空が、

街全体の輪郭をやわらかく溶かしていて

光の出どころが分からない。


石畳はまだ少し湿っていて、

靴音だけが静かに吸い込まれていく。


現場は、古い建物の中にあった。

外から見ると、ただの街並みに紛れるような扉。


でも一歩入ると、

機材の匂いと、人の集中の熱が混ざった空気がある。

暖房の乾いた温度と、

どこかでずっとケトルが鳴っているような気配。


仕事の匂いは、

国が変わっても同じだといつも思う。


九条さんは朝からモニターの前だった。

色味の調整。細かい階調。

彼の指がひとつ動くたび、周囲の空気が少しだけ締まる。

スタッフたちが自然に彼の周りを避けて動くのも、いつものことだった。


その直前、私は彼に言われていた。


「……あ、今日、来るやついるから。手配はしといた」


“来るやつ”。


その言い方が、

あまりにも普段通りだったから、私は何の疑いも持たなかった。

クライアントか、スポンサーか、関係者のゲスト。

パリの現場なら、そういう「急な一名追加」はよくある。


私はスケジュール帳を閉じながら聞いた。


「どんな方ですか?」


九条さんは、

視線をモニターから動かさないまま、短く言った。


「会えばわかる」


それで終わり。

説明をする気配が、最初からない。


私は一瞬だけ、口の中でため息を転がした。


“会えばわかる”なんて便利な言葉を、

仕事の場で使う人はだいたい面倒くさい。


しかも九条さんの場合、

面倒くささがそのまま正確さになっているから厄介だ。


——まあ、来たら分かるのね。

そう思って、私はいつもの業務へ戻った。



午前中の光はまだ弱く、

天井の照明よりも窓から入る白さのほうが目につく。


窓際ではスタッフが小声で何かを確認していて、

ガラス越しに外の冷えた空気がうっすら見えた。


九条さんは椅子に座ったまま、淡々と判断を重ねる。

判断が落ちるたび、現場が静かに動き出す。


そんな中、扉のほうから明るい声がした。


「こんにちは」


ふいに空気が一段、軽くなったように感じた。

音量が大きいわけじゃない。

ただ、場の圧を破らないまま入ってくる声だった。


振り返ると、女性が小走りで近づいてきた。

コートの肩に外の冷たい空気をまとっていて

頬の色だけがほんの少し赤い。

背筋はすっとしているのに、現場の人間の緊張がない。


関係者っぽくもない。

クリエイターっぽくもない。


“普通”

――そう思った。


でも、

現場にいる人間が「普通」に見えること自体が

実はすごく珍しい。


私はすぐに仕事の顔に戻って、名乗った。


「九条のアシスタントのリサです。お話は聞いています。これ、スタッフパス」


首から下げるパスを渡す。

金具がカチッと鳴る。

音が小さいのに、妙に印象に残った。


「ようこそ」


そう言って笑うと、相手も同じ温度で笑った。

愛想の笑いじゃない。

測る笑いでもない。

初対面の距離を無理に詰めず、でも遠ざけもしない笑い方。


その瞬間、私は少しだけ身構えを解いた。

理由は分からないけれど、身体が先にそう判断した。


スタジオの奥では九条さんがまだ作業を続けている。

こちらに気づいて、少し顎を上げた。


「よお」


それ以上でも以下でもない、いつもの温度。

近づいてくる様子もない。

ただ、存在だけを確認したような合図。


でも、私は見逃さなかった。

九条さんの目の焦点が

一瞬だけ柔らかくなったことを。


ほんの一秒。

それだけで、現場の空気は変わる。


——会えばわかる。

さっきの言葉が、胸の奥で小さく鳴った。


私はその女性に言った。


「少しだけ案内しますね。ここ、初めてだと思うので」


声も歩幅も落ち着かせる。

せかさない。

来た人が“ここにいていい”と思える速度に、場を合わせる。

それが私の仕事だ。


通路を歩くと

機材の音と人の声が混ざって、独特の忙しさが漂っている。

なのに、九条さんの周りだけ別の静けさがある。

集中が密度になって、そこだけ空気が重い。


私は壁際の機材を指して説明する。


「こっちが映像チームです。九条さんが今いるのがメインの編集ブース。普段はもっと人が多いんですけど、今日は比較的静かで」


奥では音楽チームが小さなモニターに向かって黙々と作業している。

キーボードを叩く指の音が一定のリズムで響く。

その音が、冬のパリの灰色の光と妙に合っていた。


私は声を少し落とした。


「みんな集中してるので、あんまり気にしなくて大丈夫です。見てるだけなら全然」


彼女は、頷き方も自然だった。

“わかったふり”の頷きじゃなく、ただ受け取る頷き。

現場に慣れてるわけじゃないのに、現場を乱さない。


——普通、ってこういうことか。


私は心の中で思った。

普通なのに、場に馴染む。

媚びないのに、角が立たない。

目立たないのに、なぜか空気が整う。


案内しながら、私はふと九条さんのほうを見る。

彼はまだモニターの前にいる。

なのに、今朝より呼吸がほんの少しだけ深い。

それが、私には分かった。


「こっちは撮影用のスペースです。今日は使ってないけど、明日は朝からここで大きい案件が入るみたいで」


黒い背景紙、ライトスタンド、白い反射板。

どれもプロの現場の匂いを持っている。

私は淡々と説明しながら、彼女の横顔を盗み見た。


関係者の目でもない。

品定めの目でもない。

ただ「そこにあるもの」を見ている目。


九条さんの言葉が、少しずつ意味を持ち始める。


私はいつもの調子で、軽く付け足した。


「九条さん、普段はああ見えてけっこう動き回るんですよ。外の現場とか撮影現場とか、突然いなくなることも多くて」


言いながら、自分の口元が苦笑になったのが分かった。

“いなくなる”に慣れている自分が、少しだけ可笑しかった。


彼女はそれを、ただ聞いた。

余計な情もない。

興味で覗き込まない。

それが、妙に救いだった。


案内を終えて通路に戻ると、

遠くで九条さんがスタッフに短く指示を出す声が聞こえた。

彼だけが別の速度で動いている。

でも今日は、その速度がほんの少しだけ人間寄りに見えた。


「何か聞きたいことがあれば、言ってくださいね」


そう言って軽く会釈して、私は仕事に戻った。

彼女はその場に残り、現場の空気を静かに吸い込んでいるようだった。



通路に戻ったちょうどその時

九条さんがスタッフとの区切りをつけたところだった。

振り返りざまに、彼女のほうを見る。


「今夜レセプションパーティーがあるから、お前も来いよ」


返事を待つこともなく、また別のブースへ歩いていく。

理由を説明する気は最初からない。

いつものこと、のはずなのに。


私は、少しだけ立ち止まった。


——“お前も来い”を、こんなふうに言うんだ。


手配したゲストだから?

関係者だから?

そういう感じじゃない。


その女性は、パスを首から下げたまま

静かに「うん」と頷いた。

特別な反応も、舞い上がりもない。

そこが余計に不思議だった。


外の灰色の光が

ガラス越しに薄く揺れている。


パリの冬は、何も強調しないのに

景色のほうが勝手に美しい。


その美しさの中で私は、ようやく分かり始めていた。


“会えばわかる”とは、

プロフィールで説明できることじゃない。

肩書きでも、立場でも、才能でもない。


ただ、会った瞬間に

現場の空気が少し変わること。


九条さんの呼吸が、ほんの少し深くなること。

そしてそれを、私が一番先に察してしまうこと。


その程度の“分かる”なのに、

なぜか、それだけで十分だった。


私は胸の奥で、そっと言葉をほどく。


——会えばわかる。

本当に、そうだった。

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