ラフレシール

深川夏眠

rafraîchir


 人間関係の摩擦や職責の重圧につらさを感じたら、一息入れて心のをほぐすのがよい。例えば金曜日に後半休を取得して勤め先から直接、短い旅に出るのはどうだろう。

 普段は乏しい時間をやりくりして大慌てで昼食を掻き込んでいる、そこのあなた。手始めに、オフィス街の路地裏にひっそり佇むレトロな喫茶店で特製のランチを楽しんではいかが。マスターご自慢のブレンドコーヒーを最後の一滴まで味わい尽くしたら、ゆっくり立ち上がって。

 いつもの地下鉄ではなくバスに乗ってみよう。車窓の風景をぼんやり眺めるうちに、忘れていた買い物を思い出すかもしれない。立ち寄るべきは書店、茶舗、あるいは……。

 列車に乗り込むや否や、あなたは心地よい疲労感に包まれてウトウトする。同時に、目的地への期待と、よもや裏切られはすまいかという一抹の不安が被衣かずきよろしく頭を覆うのを自覚する。だが、都会から離れた小さな駅に降り立てば、そんな心配は霧消する。

 改札の外で目立たない車が待っている。運転するのは屈強な体格に優しい瞳を湛えた青年で、親友が遠路はるばる帰省したとでもいった加減で、さりげなく荷物を預かって、あなたが助手席でシートベルトを締めるなりアクセルを踏む。会話はないが、彼はあなたの到着を歓迎してか、穏やかな笑みを浮かべている。

 道がどんどん険しくなる。あなたは対向車が現れないように祈る。野生動物が不意に横切ることもあるので、肝を冷やす羽目になろう。そんな若干のスリルをアミューズブーシュとして短いドライヴが終わる。

 白い目隠し塀の内側からあるじが現れて一礼し、ようこそいらっしゃいました、お久しぶりでございます、先にお風呂になさいますか……云々。まずは汗を流したいと答え、あなたはそのまま浴場へ導かれる。他に客はいない。

 檜葉ひば材のつややかな廊下の先に脱衣所があって、必要なものが一通り揃っている。石と木で造られた浴室はもうもうと湯気に満ち、それだけで毛穴が開いて汚れが流れ落ちそうだ。あなたは手足を洗い、白濁した柔らかい湯に浸る。皮膚が、心臓が、温泉と対話する。芯までぬくもったら風呂を出て浴衣を着、瓶入りのフルーツ牛乳で一服。化粧水をはたいた顔で鏡を覗き、コンディションが順調に整っているのを確認する。

 食事のための和室は準備万端、女将はあなたが着座すると一礼し、必要なときはお呼びくださいと言って去る。やりみずのせせらぎ。

 八寸、向付。いずれも前回、気に入ったと褒めた品が半分、季節の彩りを意識した新顔が半分と、心憎い演出。あなたは下戸だから、食前酒として供された少量の果実酒をチビチビ舐めながら箸を動かす。静かだ。時折、庭を風が吹き抜けるのか、笹の葉がサラサラと歌う。お造り、揚げ物。キャンドルで熱せられたティーウォーマーの上に小ぶりの耐熱ガラスポット。琥珀色に澄んだ特製のスープがチリチリと顫動し、切子の猪口を介してあなたの唇に運ばれるのを待っている。満を持して飯櫃を開ければ、中には宝石のような具が燦然と輝く、ちらし寿司。

 心づくしの料理を堪能したあなたは、テーブルの片隅に控えていた薄青い玻璃のハンドベルを取り上げ、ぎこちない手つきで振ってみる。ややあって女将が現れ、卓上の有り様に満足げな笑みを浮かべて片付け始める。

 若い仲居さんが半月盆を捧げてやって来る。デザートには、あなた好みの白玉入り蜜豆を煎茶と共に。赤い寒天は柘榴の果汁を固めたものだとか。

 満腹になったあなたはよろめきながら退出し、二階へ上がる。僅かばかりのアルコールが脳に沁み渡って円を描く。宛がわれた部屋に入るやベッドに倒れ込んで眠ってしまう。だが、頭の一点はずっと醒めていて、程よい頃合いにアラームを鳴らす。あなたは洗面所で顔を洗って睡魔を追い払う。行きがけに購入したペンを携えて廊下に出、ホールクロックが午前零時を告げたら階段を下りて、その方向を目指す。

 館内は消灯後。あなたはフットライトの微かな明かりを頼りに進む。角を曲がると行き止まりで、厳めしい扉が重々しく立ち塞がっている。とはいえ、ご承知のとおり、両手を添えてグッと押せば左右に分かれて吸い込まれるように戸が開き、次の間が迎え入れてくれる。

 あなたは視線を上向け、しばし陶然と立ち尽くすだろう。四隅からほんのり電球色に照らされて輪郭を滲ませるのはぐん明王を模した木像。えんけいが天井に届きそうな、隆々たる体躯。作者の妄念が籠もった模刻なので本来の姿とは様子が違うらしい。腕の数が多いとか尾が生えているとか、あるいは表面が異なる色をしているだとかで、おどろおどろしく禍々しいのだが、むしろ邪神像として拝跪したい想いが勝り、むず痒さに身じろぎしてしまう。

 あなたは浴衣の前をはだけ、程よく割れた腹筋を曝け出し、歯を食い縛って筆記具に仕込まれた細い刃を閃かせ、臍の近くを掻き切る。軍荼利さまは渇仰を受け止め、ひたいに穿たれた第三の眼から、あなたの開口部、なまの滲むうろを目がけて鞭のようにしなう光の矢を放つ。あなたは魔神の慈愛に打たれ、くずおれてぬかく。血液が漏れ、身拭みのごいの生地にじんわり沁みるのがわかる。軍荼利さまの光芒は錫杖のごとく真っ直ぐに伸び、シャラシャラと霊妙な音を響かせて、あなたの肩を押さえ、動きを封じる。

 あなたは悦服するのみ。蓄圧された悪意が分け与えられ、あたかも巨大な注射器で大量の薬液を注入されているかのような感覚に囚われて眩暈を覚えながら、軍荼利さまを介して方々から訪れる顔も名も知らぬ無数の客人の意趣遺恨に触れ、理解し、共有するに至る。そして、あなたの鬱憤も同様に軍荼利さまの滋養となり、いつか誰かに分配されるのだ。

 緊張の糸が切れ、あなたは俯せになって浅い眠りに落ちる。目覚めると寝台の上で、傷には手当てが施され、身体からだは真新しいバスローブにくるまれている。

 あなたは朝風呂と洒落込み、後ろ髪を引かれる思いで濁り湯を抜け出す。温泉の成分が切り傷にジワジワ浸透する。

 和室の食卓に朝餉。白粥、焼き魚、だし巻玉子、野菜の炊き合せ……など。

 名残を惜しみつつ帳場へ。主と女将、若い仲居さんが、またいつでもおいでくださいと言って送り出してくれる。土産は自家製の柘榴ジャム。あなたは彼らに礼を述べる。少しは気の利いたことを言いたいけれど、ままならない。

 昨晩の逞しい青年が車を回して待っている。あなたは助手席に収まる。満喫したかと問う青年に、あなたは答える。いつも往路で二泊しようか、あるいは無理を押して三泊……などと思い巡らすのだが、一晩で体力を使い果たす感があるし、腹が傷だらけになるのも考えものだから、こうして一泊だけで尻尾を巻いて逃げ出すのだと、苦笑いして。

 青年は微笑み、新たな献立を考案する時間が取れて主たちには都合がいいかもしれないと応じる。いろいろなお客さんが入れ代わり立ち替わりしてくれた方が、常に新鮮な怨念を奉じられて、のため、いてはあなた方自身のためになるだろう、とも。

 駅の車寄せで、去り行くあなたに青年が付言する。夜の浴衣から皆さんの血に染まった部分を切り取って、年に一度のお身拭いに用いるので、次は是非、その折にお越しください――。

 あなたは振り返り、小さな傷口に充塡された多種多様な愛憎のこごりに服の上から触れる。そして、青年が放った、という語が実はわれだったと気づいて、軍荼利さまの化身アヴァターラに深々と一礼するのだった。



                rafraîchir【FIN】




*2025年6月書き下ろし⇒初出は12月:Romancer

 https://romancer.voyager.co.jp/?p=588564&post_type=nredit2

**雰囲気画⇒https://cdn-static.kakuyomu.jp/image/6PWA2EBG

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

ラフレシール 深川夏眠 @fukagawanatsumi

★で称える

この小説が面白かったら★をつけてください。おすすめレビューも書けます。

カクヨムを、もっと楽しもう

この小説のおすすめレビューを見る

この小説のタグ

参加中のコンテスト・自主企画