第2話 分断が起こっている

その喧騒とは対照的に、昼間の公園には穏やかな光が降り注いでいた。

 

 大野葵――二十八歳の女刑事――は、ベンチに腰を下ろし、眠気を追い払うように大きく伸びをした。 横にはコンビニ袋、温度の抜けたコーヒーカップ、食べかけのサンドイッチ。顔色は少し悪く、明らかに寝不足だ。捜査が始まると家に帰れないなんてこともザラだ。


 普通の会社員なら9時5時出社で予定も立てやすいが、刑事はマジで予定すら立てらないことも多い。我ながらよく続けているものだ。

 

 そこへ、先輩刑事・田上が歩いてくる。

「ダルそうにしてるな、大野葵くん」とふざけた口調で話しかけてくる。

 のんびり屋でいつもひょうひょうとしている割に、いざとなったら頼りになるのは、刑事のキャリアのなせる技だろう。

「あ、田上さん」

 田上はスマホを差し出した。「ほれ、佐原玲子の信者がまた大騒ぎしてるぞ」

 

 画面にはSNSのトレンドがずらりと並んでいる。

 

 《#佐原議員を守れ》

 《#週刊東洋を許すな》

 《#佐原玲子 辞職しろ》

 

「うわあ…」 葵は眉を寄せる。

「信者とアンチの対立も激化する一方だ」

「そのうち死人が出そうですね」


 田上は肩をすくめた。「もう四ヶ月もこの女の内定進めてるけど、裏金はほぼクロ。週刊誌報道も出た。それでもここまで信じられるって、もはや才能を超えてるかもしれん」

「ゴリゴリに洗脳されてるんでしょうね」

 葵は自分のスマホをスクロールする。信じられない低知能な書き込みの数々にうんざりする。

 

《都は週刊誌に捏造記事を書かせて玲子さんを潰したいんだろう》


 《今回の佐原議員の裏金疑惑はメディアが全部仕組んでる!》

 

《権力に屈しない玲子さんに憧れます》

 

 田上は鼻を鳴らす。「まぁ、善悪の判断のつかない犬猫野菜だから」

「犬猫野菜?」

 葵の頭には可愛い犬と猫、そして真っ先に白菜が浮かぶ。

「うん、犬猫より判断力もなく、言われた言葉を鵜呑みにする連中を育てて、最後に…」「最後に?」

「収穫する」

「はあ…」

 人を野菜みたいに。

「この女の信者なんて犬猫野菜だろ」

「田上さん、そんなこと思ってたんですね」 笑いながらも引き気味に返す葵。

「ああ。大きな権力に立ち向かうという構図さえしっかり作っておけば、犬猫が喜ぶのをよく抑えてるよ、この女は」


 苦笑しながらも、確かにそうだと葵は思う。

 都の不正を暴く女神と持て囃されている佐原玲子。何者でもなかった一人の女性が、大きな権力に力強く立ち向かう姿は、まさに小説であり、映画であり、ドラマのような、そんな美しさを感じる。


「俺たちも気ぃつけんとな。正義って、こいつらみたいに簡単にねじ曲がるから。俺ら刑事だって、正義のつもりで人を追い詰める時あるだろ?」

「はい、たしかに。アンチ側も理路整然とした批判というよりは、叩くことに気持ちよさを感じてる人が多いような」

「それが一番ヤバいんだよ。犬猫たちもこの女の洗脳から目覚めたらどうするんだろうな」

 

 ネットでは今、大きな分断が生まれている。


 佐原玲子を崇拝する信者たち、前々から佐原玲子のことが気に入らず、今回の裏金疑惑をきっかけに佐原玲子とその信者たちを一斉に叩く、『自称』まともな民意たち。中には信者からアンチに回る者、アンチから信者に回る者などもいて、カオスな様相を呈している。

 

 葵の表情が曇る。


  脳裏に、雨の中、担架で運ばれていく死体の光景がよみがえった。思い出したくはないが、決して忘れてはならない出来事である。


 

       ◆

       

       

 玲子は自宅のリビングでソファに腰を下ろし、スマホを手に取っていた。画面には今も上昇し続けるトレンドが並ぶ。

 

《#佐原議員を守れ》

 《#週刊東洋を許すな》

 

 その勢いに、玲子の口元がわずかに上がった。最高に愉快な瞬間。

 

 自分のことを正義の味方だと持ち上げ、自分が言うことにはすべて賛同してくれる。

 遊ぶ金が足りなくなればすぐに口座に振り込んでくれる。仮に議員を辞めたとしても無条件に献金してくれるバカたちがいるかぎり、一生、金に困ることもないだろう。

 頭の悪いバカたちの頂点に立つ優越感をひしひしと噛み締める。玲子は名刺入れを取り出し、一枚抜く。


  週刊東洋 編集部 横田敦


  スマホでそれを撮影し、そのままSNSの投稿画面を開いた。

 

《この人からいきなり突撃取材をされました。私の裏金疑惑をでっちあげた記者さんです。いきなり押しかけて取材とか、週刊誌って相手の都合とか考えないのでしょうか?》

 

 ためらいは一瞬もなかった。 投稿ボタンを押す。

 画面に数字が走る。

  リポスト数も、いいねの数も、瞬く間に跳ね上がっていく。数字が跳ね上がっていくのはいつ見てもいい気分にさせてくれる。

 

 玲子はふと、棚に飾られた父の写真に目を向けた。

  父は静かに微笑んでいる。

  その視線を受け止め、玲子もそっと目を閉じた。その直後、過去のニュース映像がフラッシュバックし、突如音量を上げたように耳に飛び込む。

 

「市民公園のフェンスで男性が首を吊って死んでいるのが発見されました。自殺と見られています。死亡したのは都内在住の佐原徹さん、五十二歳で――」

 玲子はゆっくりと目を開いた。表情は揺らがない。ただ、深く、静かに息を吐いた。

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