第3話
翌日、彼から連絡は来なかった。その次の日も、そのまた次の日も。
それでも私は、いつもと同じ時間に家を出て、同じ駅のホームに立つ。同じ車両の位置。見慣れた顔ぶれの中に、彼の姿だけがない。
『偶然は続かないか』
つまらなそうに呟いた声は、電車の走行音にすぐかき消された。
それから数日が過ぎた、休日のこと。休日でも私は、平日と同じ時間に目を覚ます。部屋の掃除や片付けをして、予定があれば出かける。何もなくても、時間は同じように流れていく。
その日は、本棚の上に積もった埃が気になり、徹底的に掃除をする気分になっていた。わたわたのハンディクリーナーをくるくる回し、背表紙をなぞるように埃を取っていく。
一冊の本に、手が止まった。
主人公とヒロインが、偶然バーで出会う物語。訳あって二人は偽の恋人を演じることになり、一度はすれ違い、離れる。それでも互いの大切さに気づき、偶然を装って再会する――そんな話だった。
『そうかも、偶然なんて必要ない。必然でもいいんだ』
一人きりの部屋で、私は小さくガッツポーズを作る。胸の奥で、何かが決まった音がした。
次の日、私は彼がまだ帰っていないであろう時間を狙って、仕事の合間に休憩を取った。
『今晩は、まだ仕事中?終わったら連絡くれる?』
送信ボタンを押したあと、スマホをぎゅっと握る。恥ずかしさと、不安が入り混じる。
少しして、スマホが鳴った。
恐る恐る画面を開く。
『いや、今帰るところ。宮下さんは? 帰り?』
胸の奥が、ほっと緩んだ。
『んーん、まだ仕事。ちょっと休憩中』
文字を打ちながら、次の言葉を探す。
『ねえ、まだ帰らない? 少し時間つぶしてて。また同じ電車に乗ろうよ』
図々しいと思いながらも、これしか浮かばなかった。スマホを胸に抱え込み、身を丸める。
『分かった。駅近くの本屋で時間つぶす』
返事を見て、胸を撫で下ろした。
それから急いで資料をまとめ、ディレクターとの打ち合わせを終え、いつもより少し早く局を出た。近くの信号で立ち止まり、その待ち時間にメッセージを送る。
『お疲れ様。今、仕事終わったよ。 まだ本屋にいる?』
一時間以上が過ぎていた。待たせすぎたかもしれないと、気持ちが焦る。
『お疲れ様です。今、外出る』
すぐに返事が来た。
『分かった。じゃあ、駅の改札前で待ち合わせしよ』
信号が変わると同時に歩き出す。バス停にはちょうどバスが来ていて、人の流れに紛れて乗り込んだ。今日は座らず、降り口近くに立つ。何も変わらない車窓を、なぜか見つめてしまう。
駅に着くと、階段を一気に上る。パンプスの音がカツカツと響き、息が上がる。走らず、歩調を整えながら改札へ向かう。
人の流れの向こうに、すっと背筋を伸ばした彼がいた。
彼もこちらに気づく。安心して、思わず顔が緩んだ。
「待たせた?」
「いや、今来たとこ」
絶対に待っていたはずなのに、彼はそう言った。
『よかった。同じ電車、間に合いそう』
肩を並べて歩きながら、近況を話す。改札の音と人のざわめきに紛れながら、会話は続く。二人の足音が自然と揃い、胸が軽くなる。
ホームに降りると、ちょうど電車が到着した。顔を見合わせ、「先どうぞ」と言い合いながら、結局二人並んで乗り込む。
車内はいつもと同じく、人はまばらだった。今日は運よく、並んで座れる席が空いている。
『空いてるね』
並んで座ると、歩いている時より距離が近い。彼の体温が、じんわり伝わってくる気がした。ベルが鳴り、ドアが閉まる。ガタンと揺れて、肩が少し触れる。
発車後の揺れを感じながら、世間話を続けた。彼の駅は三つ先。時間が少ないせいか、私は少し早口になる。
彼の降りる駅が近づいた時、彼は決心したように話した。
『どうして連絡くれたの?』
私は、自分が連絡しなかった理由と、突然連絡した理由を話す。
『んー、また同じ電車になるの待ってたの。でも、なかなかならなくて』
揺れで彼に触れる感触が、言葉を少し乱す。
『だから、ちからづくで同じ電車にしてみた』
おかしくなって、笑いながら彼を見る。吊り革がキシキシと揺れている。楽しいのに、小説みたいにうまくはいかないな、と少し思う。
『偶然が重なって、何度も会えたら嬉しいじゃない? でも、小説みたいにはいかないね』
少し拗ねた顔をしてみる。
彼は目を丸くし、何かを堪えるような表情をしてから、楽しそうに見えた。
電車が止まり、ドアが開く。外の空気が流れ込み、少し冷たい。
彼は立ち上がり、以前のように手を少し挙げてドアへ向かう。
『翔くん、今度はゆっくり話そ』
思わず、気持ちが言葉になった。
ホームに降り、階段へ向かう彼を、立ち上がって見送る。少し屈んで窓越しに横顔を見ると、彼は気づいたようにこちらを向き、軽く手を振った。
電車が動き出し、車内が揺れる。彼がいた側の肩が、まだ温かかった。
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