第2話
私は、何の取り柄もない、普通の中学生だった。勉強も運動もそこそこ。社交的ではなく、内気。趣味は読書と映画を観ることくらいで、友達もいつも同じ顔ぶれだった。地域が同じで、保育園から一緒の子たち。その中で目立つこともなく、話を聞いては軽く相槌を打つだけ。
男子とは、必要最低限しか関わらなかった。
休み時間になると、外の景色を少し眺めてから、机の中に手を伸ばす。さらりとした質感の本を取り出すのが、いつもの流れだった。昨日、本屋で目に留まった新書だ。あらすじは何となく知っている。主人公が苦難を乗り越え、成功していく物語だった。
休み時間は、決して長くはない。読めても数ページ。それでも、教室の中で一人になれる時間が欲しかった。
無駄に周りに気を使わなくていい。本を読んでいる人を邪魔しない、そんな空気のクラスだった。
さらりとした紙の感触を楽しみながら、前の時間の続きから読み始める。
主人公の生い立ちは厳しく、それでも学校に行かせてくれた両親の存在が描かれていた。ああ、辛いけど頑張っているんだな、そんな感想を抱きつつ、次のページをめくろうとした時だった。
『ねえ!それ面白いよな。俺も読んだよ。特に主人公が独立して会社を立ち上げようとした時、同僚たちが一緒に来てくれる所!』
えっ!?
肩をすくめるほど驚き、少し怯えた。そのあと、ネタバレされたことへの残念な気持ちが押し寄せる。
そうだ。いつもはブックカバーをしていたのに、今日は手触りが良くて、そのまま読んでしまっていた。タイトルが丸見えだったのだ。
声の主は何かに気づいたようで、慌てて手を合わせ、頭を下げた。
『ごめん、まだそこまで読んでないよな。ネタバレした。ほんとごめん!』
バツが悪そうに、頭をぽりぽりとかいている。
天野 翔。
普段なら、絶対に関わることのないクラスメイトだった。社交的で運動部に所属していて、それなのにテストの点は私より良い。私が陰なら、彼は間違いなく陽だった。
『天野くんもこの小説読むんですね』
口に出してから、自分で驚いた。どうして話を広げるようなことを言ってしまったのか。後悔しながら、少しだけ彼の顔を見る。
『うん。その小説は出てすぐ読んだ。だからつい』
申し訳なさそうな苦笑いで、理由を教えてくれた。
『大丈夫です。でも……これからは、先のこと教えないでくださいね』
何か間違えた気がして、すぐに本へ視線を戻す。鼓動が早く、それを落ち着かせるため、一行一行をゆっくりと読んだ。
その後は何事もなかったかのように授業を終え、帰路についた。家で宿題と予習を済ませ、夕食をとり、湯船につかる。
寝る前に、また少し読書の時間。栞を挟んだところから読み始めようとして、昼間のことを思い出した。
いつもなら絶対に先を読まないのに、その日はページをぱらぱらとめくってしまった。天野くんが言っていた場面が、そこにあった。
あーあ、ネタバレじゃない。
そう、心の中で不貞腐れる。
それから、二週間に一度くらいのペースで、なぜか彼は話しかけてくるようになった。もちろん、ネタバレはしないで、小説の話をする。親が読書家で、書斎から本を持ち出して読んでいるらしい。
運動部で勉強もできるのに、そんな時間があるのかと感心した。
たまたま、同じ本を読んでいる時があった。私も、彼の存在に慣れてきた頃だった。
『あの主人公のセリフがかっこよかったよな!ほらあれ、仲間をほっとけないってところ!』
興奮して話す彼につられて、私もつい。
『仲間をほっては行けない。俺がなんとかする。まかせろ!』
少し役者になった気分で、いつもより大きな声で言ってしまった。途端に恥ずかしくなり、下を向いて足の上で手をぎゅっと握る。
『宮下、お前、綺麗な声だな。びっくりした』
突然そう言われ、驚いた。深い意味はないはずなのに、鼓動が激しく脈を打つ。恥ずかしさだけじゃない、何か別の感情も混ざっている。でも、それが何なのかは分からなかった。
『ありがとう』
そう言ったところで、チャイムが鳴った。
新学年が始まり、私は思い切って放送委員になった。彼の言葉が、なぜか背中を押してくれたのだ。最初は緊張して、台本通りに放送できなかった。それでも、なぜか頑張れた。
次第に慣れ、緊張もなくなり、聞き手の気持ちも分かるようになっていった。間や抑揚を工夫するようになり、三年生が卒業したあと、私は昼休みの放送のパーソナリティーを担当することになった。
通例なら、音楽を流したり注意喚起をする程度だったが、私はどうしてもやりたいことがあった。小説の紹介だ。抜粋した一節をキャッチフレーズのように朗読してから、本を紹介する。それが、少し評判になった。
三年生になり、クラスが変わった。天野くんとは一年、二年と同じクラスだったが、三年で別々になった。
最初の頃は、廊下ですれ違うたびに、小説のタイトルを言い合い、読んだかどうか確認するようなことをしていた。でも、それも次第になくなっていった。
放送委員は、夏休み明けに二年生へ引き継ぐことになった。後輩の女の子が、少し泣きながら『先輩の放送が良かったです』と感謝してくれた。
私は、天野くんの言葉を思い出し、心の中でありがとうと伝えた。
その時、頭の中で、小説の一ページがめくれる、心地よい音が聞こえた気がした。
私は近くの女子高へ進学し、それとなく高校生活を満喫した。
朝の通学路、同じ制服の波に紛れながら歩く日々。特別な出来事はなくても、友人と笑い、放課後に寄り道をし、季節が移ろっていくのを感じていた。
天野くんは、県でも上位の進学校に進学したと、風の噂で耳にした。
そこで部活にも打ち込み、忙しい毎日を送っているらしい。直接会うことはなくなったけれど、彼の名前を聞くたび、胸の奥で静かにページがめくれる音がした。
その頃から、頭の中の物語は、はっきりと輪郭を持ち始めていた。
主人公は、間違いなく天野くんだった。
私は仲間? それとも……ヒロイン?
女子高に通うと、恋愛の話題は日常の一部になる。
誰かを好きになること、誰かに選ばれること。私は、そうした感情が存在することを、少しずつ理解していった。
あの頃から進んでいる物語が天野くんの物語で、私はその登場人物の一人になったような気がしていた。
高校を卒業し、私は専門学校へ進学した。
地元のラジオ局が運営している、声の仕事を学ぶ学校だった。
放送委員で培った経験は、ほんの入口に過ぎなかった。
発声、滑舌、間の取り方。専門的なことを一から学び、実習に追われる日々。
大変で、正直つらかった。
それでも、不思議と負ける気はしなかった。
私は、物語の中で主人公にとって一番重要な人物なのだから。
そう思いながら、小説をなぞるように、私は人生を歩んでいった。
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