水子

(なんで、私ばっかり……)


(どうして……)


(なんで……)


何をしても、うまくいかない。

ただただ、情けない。


今日もまた、このマンションに来てしまった。

裕也には、もう来るなと言われているのに。


頭ではわかっている。

もう別れた。


わかっているのに、

気づけば、足がここへ向かってしまう。


見つかれば、警察を呼ばれてしまう。

でも、もしかしたら――

「会いたかった」と、笑ってくれるかもしれない。


裕也の部屋を見上げていると、


「小林さんですか?」


声をかけられた。


振り返ると、ドラマの中で見るような制服を着た人が二人、

訝しげに私を見ている。


「警察です。


小林さん、ここに来ないように言われていますよね。

署までご同行いただけますか?」


***


「御門先生、あの……何か、お手伝いできることありませんか?」


働き始めて、数日。

……患者はいない。


「暇だよねぇ。ごめんね。

ここさ、ホームページもSNSもやってないんだよね。

ほら、僕、診断しかできないじゃん。

インチキだー、なんて書き込まれるのがオチじゃん」


ここは、笑っていいところなのだろうか。

一瞬、迷う。


反応に困って、頬をひくひくさせていると、


「カチャッ……」


ドアの開く音が聞こえてきた。


「……!?」


先生と、視線が合う。


(患者さん……ですかね)


小声でそう言って、待合室へ足を向けた。


目の前に、女性が立っていた。


髪は結んでいるけれど、化粧はしていないように見える。

肌は潤いを失い、目の下には暗い影が差している。


「こんにちは。

こちらは初めてですか?」


女性は待合室を見回しながら、かすかに聞こえる声で、カサカサの唇を動かした。


「あの……原因不明の不調って書いてあるのを見て来たのですが……

初めてで……」


「はい。こちらはメンタルクリニックです。

初めての場所は、不安ですよね。


こちらの問診票にご記入いただけますか?」


バインダーを差し出す。


女性の爪には、マニキュアのインクがボロボロに残り、爪先についている。

本当は、指先にまで気を遣えるくらい綺麗にしていた人なのかもしれない。


椅子に座ってボールペンを動かしている彼女はどんな思いで来ているのだろう……。


スッと、影が近づく。


「書きました」


そう言って、問診票を渡された。


「それでは、診断室にお入りください」


診断室に案内する。


「こんにちは。

そこに座って。

問診票は書いてくれた?」


御門先生は、相変わらず軽い声で彼女に問いかける。

私は持っていた問診票を差し出した。


「小林 美羽子(こばやし みわこ)さん、はじめまして。

僕は御門 舜といいます。」


小林さんはまだ立ったままで、目を開いたまま御門先生をじっと見つめている。

少し胸を後ろに引き、力を入れているように見えるのは、怖いからなのかもしれない。


「小林さん、どうぞおかけください。」


私はここにいるべきか、退室するべきか迷ったが、

彼女が落ち着くまではそばにいようと決めた。


御門先生は問診票に視線を落とすと、PCに向き直り入力していく。


(タンッ……。)


「診断結果が出ました。

あなたは霊に頼られています。」


「えっ?」


小林さんは、予想もしていなかった診断結果に、言葉を失った。


(わかる、わかるよその気持ち。

えっ? ってなるよね)

と心の中でうんうんと頷く。


「一つ確認させてください。

あなたは妊娠したことがありますか?」


彼女はその質問を聞くと、勢いよく立ち上がった。


「まさか……」


そう言ったきり、黙ってしまった。ただ、目だけが忙しく右へ、左へと動いている。


私は彼女の肩に手を添え、ゆっくりと座るように促した。


「わかりません」


彼女が口を開く。


「検査はしていません。

ただ、妊娠したかもしれないと思っていた時期はありました。

でも、その後、また生理が始まって……」


彼女の目から、涙が溢れた。


「霊とは、あなた自身の子どもです。


世に産まれなかった子を、水子と言います。


あなたは今、ストーカーになってしまいそうなんですよね。

その相手が、父親にあたる人です。


あなたと相手を、強く結びつけてしまっている。

執着してしまう。


亡くなった子どもにとって、

自分の存在を両親に知ってもらいたいと思うのは、ごく自然なことなんです」


小林さんは、息をするのも忘れたように、御門先生の言葉を聞いている。


「あなたの症状に、首の痛みと吐き気、気持ち悪さがありますよね。


これは、妊娠初期の症状であるつわりとよく似ていると思いませんか?

これが、水子に憑かれたときの身体に出る不調なんです。」


御門先生は、症状の説明を丁寧に続けている。


私のときは、こんなに詳しくは説明されなかった。


たまにこちらへ向けられる視線は、もしかしたら私に向けたものなのかもしれない。


「覚えておいて」

そう言われている気がした。


小林さんの肩が震える。

そして、手で顔を覆い、声を上げて泣き出した。


部屋中に、彼女の悲しみを絞り出すような悲痛な声が満ちる。


私たちは、ただ見守ることしかできなかった。


泣き切ったからか、疲れたからなのか、

小林さんの声は、次第に弱くなっていった。


そのタイミングを待っていたかのように、

御門先生が、静かに言葉を紡ぐ。


「あなたは今、

自分のせいで子どもが亡くなってしまったと、

思っていますよね」


ピタッと、小林さんの肩が止まる。


「でも、それは違います。

あなたのせいではありません。


あなたには、まだ他に霊が憑いています。」


バッと顔が上がる。


「水子は、この世のことを知りません。

ピュアな状態なんです。

だから、感情はひとつしかありません。


『親に、愛されたい』


それだけです。


でも……。」


御門先生は、問診票に視線を落としたまま続ける。


「問診票には、

『情けない』

『どうして私だけ……』

そう書いてありますね。


これは、水子の感情ではありません。


別の原因が、あなたの中にあるということです。


おそらく、その影響で流産し、彼とも別れることになった。


これが、私の診断結果です……。」


この言葉を向けられたあとの戸惑いが、

どれほどのものか、私は痛いほどわかる。


御門先生にとってもまた、痛みを伴う時間なのだろう。

これ以上は、何もしてあげられないという、

その事実を告げる時間。


「私は、お寺で水子供養してもらうことをお勧めします。」


(え……?

私がカウンセリングをする流れじゃないの?)


まだ、できるかどうかも分からないのに、

そんなことを考えてしまった。


「水子は、あなたの子どもです。

あなたが、お寺で供養をしてあげる。

それが、その子にとっての幸せだと、

僕は思います」


(恥ずかしい……)


自分の考えの浅さ。

思いやりのなさ。

それが、一気に胸に押し寄せた。


御門先生は、霊に対しても、きちんと敬意を払っている。


顔を、上げることができなかった……。


「行きます。行きたい。

供養してあげたいです」


小林さんの涙は、もう止まっていた。


真っ直ぐに前を向いた彼女は、ほんの少しだけ、母親の顔をしていた。


「水子供養ができれば、執着もなくなり彼への想いは消えるでしょう。

ストーカー行為もなくなります。


さて、ここからです」


御門先生が、静かに言う。


「もう一人の霊も、お祓いをすれば祓えるかもしれません。」


ただ――


御門先生は、強い意志を宿した瞳で、私を見た。


「カウンセラーである花村先生なら、成仏させてあげられると、僕は思います。」


御門先生は、小林さんへと視線を戻す。


「なぜ、こんな言い方をするのか。


それは、

花村先生にとって、あなたが初めての患者さんになるからです。


もちろん、カウンセリングを受けるかどうかは、あなた自身が決めることです。


ただ、僕は――


花村先生なら、あなたを、また元の元気な姿に

戻してくれると信じています。」


御門先生と目が合う。

私は、ゆっくりと頷いた。


小林さんは、

御門先生から、彼女の右後ろに立つ私へと、

身体ごと視線を向ける。


「私は、誰かに話を聞いてもらいたいです。

今の私の状態はどうなのか。

どんなことが、頭の中を埋めているのか。

なぜ、こうなってしまったのか……」


小林さんの、すがるような潤んだ目。

御門先生の、『大丈夫』と揺るがない目。


二人分の視線を受けながら、

私は、心から『救いたい』と思った。

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