Chapter 2 空白 ―Absence―

 翌日、高史とディランは裕美子の自宅マンションを訪れた。

 新宿から電車で三十分ほど離れた住宅街。駅から徒歩十分ほどの場所に建つ、築十年ほどの中層マンション。周囲には公園や商店街もあり、穏やかで平和な住宅街が広がっていた。何の変哲もないその風景が、むしろ異常な記憶を抱えた部屋の存在を際立たせているようだった。

 裕美子の部屋は、その四階にあった。


「お待ちしていました」


 裕美子は二人を招き入れ、リビングのソファを勧めた。

 部屋はこぢんまりとして清潔に保たれ、さりげない装飾に住人の几帳面さと優しさが滲んでいた。本棚の文庫本、丁寧に飾られた風景画——どれも、ごく普通の穏やかな暮らしを物語っていた。 しかし、その平凡な日常に、突然闇が忍び込んだ。


「さっそくだけど……」


 高史は椅子に座りながら、裕美子に向き直った。

「オレの能力について、説明しとくか。オレは、記憶の『匂い』を追跡できる」

「匂い……ですか?」


 裕美子は不思議そうに首を傾げた。


「ああ。人の記憶ってのは、独特の“匂い”がある。本物の記憶には温度があるし、改ざんされた記憶はどこか冷たい。オレには、そういうのが鼻先でわかるんだ」

「そんな能力が……」

「まぁ、特殊体質ってやつよ」


 高史は軽く言ったが、その能力の背景には暗い過去があった。


 幼い頃、高史は父親からの激しい虐待を受けていた。閉じ込められた物置の中、目隠しをされ、手足を縛られたまま……ただ暗闇と孤独に耐え続ける日々。母親は自分を産んだ後にすぐ亡くなり——彼を助けてくれる大人など、存在しなかった。

 何も見えず、動くこともできず——そんな状況で、唯一信じられたのが「匂い」だった。人の気配、血の臭い、古びた木材の香り……五感のうち、彼に残されたのは嗅覚だけだった。

 その極限の中で、高史の鼻は異常なまでに研ぎ澄まされ、やがて“記憶”の匂いすら感じ取れるようになっていった。


 そして今、その能力は記憶犯罪の被害者を救う力となっている。

 虐待していた父親は、今はもう死んでいる。高史が十歳の時、酒に酔って階段から転落し、そのまま帰らぬ人となった。高史は、その死を悲しまなかった。むしろ、心のどこかで「当然の報いだ」とさえ思った。

 涙は出なかった。ただ、ようやく“外の空気”を自由に吸えたことに、小さく安堵した記憶だけが残っている。


「じゃあ、始めるぞ」


 高史が裕美子の正面に静かに腰を下ろすと、部屋の空気がひんやりと引き締まったように感じられた。目を閉じ、深く呼吸を整える。


「リラックスしてくれ。オレが、アンタの記憶の匂いを追う」


 裕美子は緊張した面持ちでうなずいた。

 高史は深く息を吸い込んだ。

 流れ込んでくる——裕美子の記憶。

 朝の食卓に漂う味噌汁の香り、職場で交わされるささやかな笑い声、友人との再会を彩るカフェの甘いコーヒーの匂い……。

 それらはまるで、春の野に咲く名もなき花のようだった。自然で優しく、確かに“そこにあった”と感じられる、温かな記憶の香り。

 しかし——


「……あった」


 高史の眉がひそめられた。


「不自然な“空白”がある。あたかも、一枚の写真の中心だけがナイフで丁寧に切り抜かれたみたいに……綺麗すぎる消え方だ」

「本当に……?」

「ああ。しかも、この匂い……プロの仕事だ。素人じゃ、ここまで綺麗に消せない」


 高史は目を開け、裕美子を見つめた。


「アンタの記憶は、確かに改ざんされてる。『筒井拓洋』に関する記憶だけが、スッポリ抜け落ちてる」


 裕美子の顔が青ざめた。


「やっぱり……」

「だが、完全に消されたわけじゃない。かすかに……風の裏に残る香りみたいな“記憶の残滓”が残ってる。そいつを辿れば、記憶の本流に届くかもしれねぇ」


 裕美子は震える声で言った。


「本当に……取り戻せるんですか?」

「ああ。Reclaimは、絶対に諦めねぇ」


 その高史の言葉を聞いた瞬間、裕美子の瞳に淡い光が差し込んだようだった。不安と恐れで覆われていた心に、ようやくひとすじの希望が射し込む。

 その後、ディランがノートパソコンを取り出し、裕美子のメモリーチップにアクセスした。


「OK、裕美子サン。少し時間かかりますが、我慢してくださいネ」


 ディランの指が、キーボードの上を高速で滑る。画面にはプログラムコードが次々と表示され、メモリーチップのログが解析されていく。普段の軽口が嘘のように、ディランの表情から一切の遊びが消える。指先がキーボードを舞うたび、彼の周囲だけが異質な静けさに包まれていく。まるで、音のないコンサートが始まったかのようだった。

 高史は腕を組み、黙ってその様子を見守った。ディランのハッキング技術は、本当に一流だ。どんなに複雑なセキュリティも、彼の前では無力に等しい。

 そして、数分後。

 ディランの手が止まり、かすかに笑った唇が動く。


「……Found it(見つけたデス)」


 室内の空気が、一瞬だけ張り詰めた。


「三年前、大規模なデータ削除が行われていますネ。しかも……この削除、驚くほど綺麗。指紋すら残さないプロの仕業デス」


 ディランの声には、珍しく警戒の色が滲んでいた。


「やっぱりか」


 高史は舌打ちした。


「でも、諦めませんYO」


 ディランはニヤリと笑った。


「ミーには、特別な方法がありますデス。バックアップサーバーに残っている可能性があるデス。ちょっと時間かかりますが……」

「頼む」


 ディランは再びキーボードを叩き始めた。その指の動きは、まるで楽器を奏でるように滑らかだった。

 数分後、画面に一つのファイルが表示された。


「Bingo!」


 ディランが目を輝かせて叫んだ。


「削除される前のバックアップデータ、発見しましたデス!」


 高史の眉がわずかに動いた。確かに、希望の糸口がそこにあった。

 しかしディランは、若干難しそうな表情を浮かべて言う。


「……このデータ、暗号化されていますネ。解読には時間がかかりますデス」

「どれくらいだ?」

「……2、3日あれば、何とかなるかと思いマス」

「わかった。じゃあ、そっちは任せる」


 高史は立ち上がり、裕美子に向き直った。


「とりあえず今日はここまでだ。オレたちは、筒井拓洋について調べてみる。何かわかったら、すぐに連絡する」

「ありがとうございます……」


 裕美子は静かに、深く頭を下げた。その目には涙が滲み、それでも確かに希望の光が宿っていた。

 それは、「信じてみたい」という思いが、ようやく芽生えた瞬間だった。


 マンションを出た高史とディランは、夕暮れの街を歩いていた。

 西の空は茜色に染まり、風に揺れる街路樹が、カサリと優しい音を立てていた。どこかの家からは、カレーの匂いが漂ってくる。

 一見、どこにでもある平和な住宅街——けれど、その穏やかさが、逆に背筋を冷たくさせる。

 こんな風景の裏側で、人ひとりの“存在”が丸ごと消されていたのだ。


「タカシ、どう思いますカ? あれは、個人の仕業じゃありませんネェ……。下手すると、政府クラスの技術レベルデス」


 ディランが真面目な表情で尋ねた。


「ああ。オレもそう思う……素人の仕事じゃないのは確かだ。裏に、でかい組織がついてる可能性が高いな」


 高史は空を見上げた。既に日が沈み始め、街にはネオンの光が灯り始めていた。


「筒井拓洋……この男が、何かの鍵を握ってる。オレたちは、まずこいつの過去を洗う」

「了解デス」


 二人は駅へと向かって歩き続けた。



 ***


 その夜、高史とディランはReclaimの事務所に戻っていた。

 既に日付が変わろうとしている時刻だったが、二人に休む様子はなかった。薄暗い事務所。蛍光灯の光はほとんど落とされ、わずかな明かりが壁に影を落としていた。

 デスクに向かい合って座り、それぞれのノートパソコンで情報を漁っている。静寂の中、カタカタというキーボードの音だけが響き、それが夜の静けさをより際立たせていた。


「筒井拓洋……」


 高史は画面を睨みながらつぶやいた。


「三年前に『事故死』として処理されてる。享年二十八歳。死因は……交通事故?」

「Hmm……」


 ディランも眉をひそめた。


「でも、事故の詳細レポート、ほとんど残っていませんネ。不自然デス」

「だろうな」


 高史ははぁ、とため息をついた。


「事故現場の位置すら曖昧、目撃者の証言もなし、現場写真も見当たらない……これだけ情報が“整然と”抜けてる。明らかに誰かが“消した”痕跡だ」

「Someone(誰か)が、意図的に消したデスネ」


 ディランの指が止まり、顔を上げた。その声には、これまでになく確信がこもっていた。


「筒井拓洋の死は……事故じゃない。殺されたデス」

「……だろうな」


 高史は静かに息を吐いた。

 筒井の死、裕美子の記憶、裏で動く組織——点と点が、少しずつ線になりつつある。

 だがその線が示す先が、どれほど危険な闇かを、彼はすでに感じ取っていた。


「問題は——誰が、何のために殺したかだ。ここからが本当の地獄かもしれねぇな」


 ディランはキーボードを叩き続け、やがて一つのファイルを開いた。


「Found something(何か見つけたデス)。筒井拓洋、元ニューロジェン製薬の社員だったデスネ」

「ニューロジェン製薬?」

「Yep, メモリーチップ関連の薬品を開発している大企業デス。記憶力向上薬、記憶障害治療薬……いろいろ手がけていますネ」


 高史は画面に表示されたニューロジェン製薬のロゴを凝視した。青と白のラインが交差する、清潔で未来的なロゴマーク。だが高史には、それが無機質な笑みを浮かべているように見えた——すべてを隠し、何も語らぬ者の笑みだ。


「……怪しいな」


 高史は画面を凝視した。


「記憶の技術に携わってた男が、事故で死んで、恋人の記憶が消される……そんな都合のいい偶然、あるわけねぇ」

「Exactly(その通りデス)」


 ディランがうなずいた。


「ミーも調べてみましたが、ニューロジェン製薬……調べれば調べるほど、臭いますネ……違法な記憶改ざん薬、治験に見せかけた人体実験、消された内部告発者。全部“噂”ですが——火のない所に、こんな煙は立ちませんデス」

「やっぱりか」


 高史は立ち上がり、窓の外を見つめた。

 新宿の夜景が広がっていた。ビル群のネオンが煌々と瞬き、人々が行き交う眠らぬ街。だがその輝きのひとつひとつが、闇を覆い隠す“化粧”のようにも見える。

 その下には、口を開けたままの“底なし沼”が広がっている——高史には、そう見えた。


「筒井拓洋は、その『闇』に気づいた。だから内部告発しようとした……でも、告発される前に口封じされた」

「そして、恋人の裕美子の記憶まで消された……」


 ディランも立ち上がった。


「これは、想像以上に深い闇デスネ」

「ああ」


 高史は拳を握りしめた。


「……オレたちは引かねぇ。たとえ相手が巨大でも、闇の中にいても、見つけ出す。裕美子の記憶を、筒井の真実を、すべて取り戻す。これはただの依頼じゃねぇ——もう、俺たち自身の戦いだ」

「Yep!」


 ディランが力強くうなずいた。


「Reclaimは、正義のために戦いますデス!」


 高史は苦笑した。


「……アンタ、たまにはマジメなんだな」

「ミーはいつもマジメデスYO!」

「嘘つけ」


 二人は軽口を叩き合いながらも、その目には強い決意が宿っていた。

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2026年1月1日 11:00
2026年1月2日 11:00
2026年1月3日 11:00

記憶回収屋 Reclaim ―消された真実― 梅酒 @Ume_syu

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