Chapter 1 依頼 ―Request―

「だからよぉ! オレはどうしても納得いかねぇって言ってんだよ!!」


 赤沢高史は、短く刈り込んだ茶髪をくしゃりと掻きむしりながら、目の前の男に食ってかかっていた。身長は百七十センチほど。決して大柄ではないが、その鋭く光る眼光と、全身から発せられるピリピリとした空気。その姿は、まるで喧嘩上等を絵に描いたようなヤンキーだった。黒いジャケットに色あせたジーンズという、ラフな格好が彼の性格をよく表していた。


「なんでオレが、こんなヤツと組まなきゃなんねぇんだ!?」


 高史が指差す先には、金髪をセンター分けにし、モデルのような体躯を持つ男が、優雅に佇んでいた。190センチを優に超える長身は、否が応でも目を引く。いかにも“アメリカン”な存在感——だが、どこか掴みどころがない。整った顔立ちに、どこか飄々とした雰囲気を纏っている。彼の名はディラン・マクドナルド。Reclaimのアメリカ支部から、つい先日東京支部に異動してきたばかりの男だ。


「ハァン?」


 ディランは大仰に肩をすくめ、怪しげな日本語で言い返した。


「ミーだって聞いていませんYO、ユーのような品のないボーヤと組まされるなんてネッ!」

「品がねぇ? アンタに言われたくねぇよ! そのヘンテコな日本語、どうにかなんねぇのか?」

「Oh, really? ミーの日本語は完璧デェ~ス! ユーはもっと礼儀を学ぶべきデスネッ!」

「うっせぇ! 大体、アンタいつもヘラヘラしてて、仕事ナメてんじゃねぇのか?」

「ナメてる? ナメてるデスカ!? ミーは超真面目デスYO! アメリカ支部でNo.1のハッカーだったデス!」

「だったら、もうちょっとマシな態度取れよ!」

「ユーこそ、もっとスマイルするべきデス! いつもムスッとして、怖いデスYO!」

「スマイル? 笑ってる暇あったら手ぇ動かせや!」


 その激しい口論は、もはやReclaim東京支部の“朝の風物詩”だった。スタッフたちは慣れきった様子でため息をつきつつも、内心では「今日も平常運転」と思っていた。

 事務所の奥から、低い声が響いた。


「——いい加減にしろ、お前ら」


 デスク奥の男が、重みある沈黙ののち、ゆっくりと立ち上がる。眉間には深い皺、眼光は鋭く、部屋の空気を一変させる威圧感をまとっていた。五十代半ばの渋い風貌。グレーのスーツに身を包み、鋭い眼光を放つその男こそ、Reclaim東京支部の責任者、桐生剛太郎だ。元警視庁の捜査官だったという経歴を持つ彼は、この組織を束ねる数少ない常識人でもあった。


「高史、お前はいつも文句ばかりだな。ディランと組むのが嫌なら、一人で仕事するか?」

「それは……」


 高史は口ごもった。


(チッ……日本語下手くそのヘラヘラ野郎のくせに、腕は本物なんだからムカつく)


 認めたくないが、ディランと組んでからミスは減り、仕事の成功率は跳ね上がっている——それだけは、否定できない。特にハッキング技術に関しては、Reclaim全体でもトップクラスだ。ふざけた態度とは裏腹に、仕事になれば信じられないほど有能だ。文句は山ほどあるが、コンビを組んで以来、仕事の成功率は確実に上がっている。


「ディラン、お前もだ。日本に来たばかりで不慣れなのはわかるが、高史と協力しろ。お前の解析力と、高史の現場勘が合わされば、敵なしだ。そうだろ?」

「Yes sir, ミーはチームワーク大事にするタイプデェ~ス。でもタカシが……タカシが冷たいのデスネッ!」

「どっちもどっちだ」


 桐生は呆れたように溜息をつき、再びデスクに座った。窓の外からは、新宿の喧騒が聞こえてくる。車のクラクションが鳴り響き、ネオンが瞬く。騒がしい都会の雑音の奥で、誰にも気づかれぬまま、またひとつ——“記憶”が消えていく。


「いいか、文句は許さん。さっさと仕事してこい。今日の依頼は重要だぞ」

「……へいへい」


 高史は不満げに鼻を鳴らし、椅子に座り込んだ。ディランも肩をすくめながら、隣の席に腰を下ろす。

 桐生が二人に視線を向けた。


「もうすぐ依頼人が来る。記憶改ざんの被害者だ」

「記憶改ざん?」


 高史は眉をひそめた。

 記憶改ざん。それは、Reclaimに持ち込まれる案件の中でも、最も厄介で、最も恐ろしい。被害者自身が自覚を持ちにくく、気づいた頃には、人格や人生そのものが変質していることすらある。単なる記憶の盗難や削除とは違い、被害者本人が「改ざんされた」という自覚を持ちにくい。気づいた時には、もう手遅れになっていることも多い。


「詳細は依頼人から直接聞け。お前たちなら、何とかできるはずだ」


 桐生がそう言い終えた瞬間、事務所の扉がノックされた。


「失礼します……」


 扉がゆっくりと開き、女性が一歩、部屋に足を踏み入れた。

その瞬間、わずかに空気が変わったような気がした。緊張が静かに、しかし確実に、場に広がっていく。

 黒髪をきちんと束ね、ベージュのコートを着た彼女の姿は控えめだが、その表情には、深い疲労と不安が全身から滲み出ていた。目の下には薄いクマがあり、顔色も優れない。何日も眠れていないのだろう。


「日高裕美子さんですね。どうぞ、お掛けください」


 桐生が椅子を勧めると、裕美子は小さくうなずき、おずおずと腰を下ろした。その手は小さく震えている。隠しきれない恐怖と、真実を語ることへの迷い——それが指先に現れていた。


「初めまして。私は桐生と言います。こちらが、今回担当する赤沢高史と、ディラン・マクドナルドです」

「……よろしくお願いします」


 裕美子は二人に頭を下げた。ディランは相変わらずの調子で満面の笑みを浮かべたが、その視線にはいつもの軽薄さはなかった。高史も無言で手を上げつつ、わずかに眉をひそめたままだった。

二人とも、すでにただならぬ依頼の気配を察していた。

 桐生が優しい口調で尋ねた。


「さっそくですが、どのようなご依頼でしょうか? お話しできる範囲で構いません」


 裕美子は視線を落とし、唇を噛んだ。しばらくの沈黙のあと——


「……私の記憶が、誰かに……改ざんされている気がするんです」


 その声は震えてかすれ、まるで自分自身の言葉にすら怯えているようだった。


「改ざん……ですか」

「はい。最初は、ただの物忘れだと思っていました。でも……違うんです」


 裕美子は膝の上で手を握りしめた。


「半年ほど前、自宅の押し入れを整理していたとき……一枚の写真が出てきたんです。私と、見知らぬ男性が——とても親しげに、笑顔で肩を寄せ合って写っていました。でも……その人のことを、私はまったく知らないんです。記憶にも、心にも、その姿が一切浮かんできませんでした」


 高史は腕を組み、鋭い視線で裕美子を見つめた。


「それだけか?」

「いえ……それからです。友人に会った時、『裕美子、最近彼と会ってないけど大丈夫?』って聞かれたんです。でも私には、彼氏がいた記憶が全くなくて……。最初は、友人の勘違いかと思いました。けれど……別の友達も、家族も、職場の同僚までもが、みんな口を揃えて言うんです。『筒井拓洋』という人と、私が確かに付き合っていた、と。……でも、私は何ひとつ覚えていない。誰もが知っていて、私だけが知らない——そのことが、何よりも怖かったんです」


 裕美子の目に、うっすらと涙が浮かんだ。


「ある日、たまたまテレビで『記憶改ざん犯罪』の特集を見ました。まさか、そんなことが現実に起きているなんて……でも、私の身に起きていることは、まさにそれだと直感したんです。恐ろしくてたまらなかった。でも同時に、“私だけじゃない”と分かって……少しだけ、救われた気もしました。それで、自分なりに調べて……こちらのReclaimさんにたどり着きました」


 ディランが表情を引き締め、そっと尋ねた。


「その“彼”、名前に……心当たりはありますカ?」

「友人に聞いたら……『筒井拓洋』って名前だったそうです。でも私には、その名前を聞いても何の記憶も蘇らなくて……」


 筒井拓洋——その名前を聞いた瞬間、高史の眉がピクリと動いた。何か引っかかるものがあった。だが、それが何なのかはまだわからない。


「……どうか、お願いします。私の記憶を、戻してください。たとえ、どんな現実が待っていてもいい。私は——大切だったはずの人を、このまま“知らないまま”で終わらせたくないんです」


 裕美子の声は、か細く、しかし強い意志を秘めていた。

 桐生が二人にまっすぐ視線を向けた。短く、それでいて重い問いが飛ぶ。


「どうだ、やれるか?」


 高史はいつものように頭をガシガシとかきながらも、立ち上がる足取りに迷いはなかった。


「……やるしかねぇだろ」


 ディランはウインクを飛ばしながらも、意外にも真剣な目つきで笑った。


「Yep! Reclaim、絶対に諦めませんデェ~ス!」



 ***


 裕美子は一礼し、事務所を後にした。

 ドアが閉まる音が静かに響いたあと、高史はふぅっと深く息を吐いた。張りつめていた空気が、ほんの少し緩む。


「……厄介な案件だな」

「Yep, 記憶改ざん、しかもプロの仕事デス。簡単にはいきませんネ」


 ディランも珍しく真面目な表情でうなずいた。

 桐生がデスクから立ち上がり、二人に近づいた。


「だが、やるしかない。日高裕美子という女性は、本気で苦しんでいる。お前たちなら、何とかできるはずだ」

「分かってるって」


 高史は面倒くさそうに手を振ったが、その目は既に仕事モードに切り替わっていた。


「とりあえず、裕美子さんの記憶をチェックさせてもらう。オレの『嗅覚』で、改ざんの痕跡が残ってるかどうか確認してみる」


 高史の“嗅覚”は、長年の経験と直感が融合した特殊な感性だ。データには現れない微細な違和感を、彼は匂い立つように感じ取ることができる。


「ミーは彼女のメモリーチップのログを解析するデス。バックアップデータに、何か手がかりがあるかもしれませんネ」


 ディランの言葉に、桐生は満足げにうなずいた。


「頼んだぞ。それと……気をつけろ。記憶改ざんを専門にする連中は、大抵裏に組織がついている」


 桐生の目は、窓の外の闇をじっと見つめていた。声は静かだったが、その奥に潜む警戒は濃く、深かった。


「分かってる」


 高史は短く答えた。

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