第2話
次の日、朝食のトーストをかじりながら、ぼんやりと昨夜の少し不思議な体験を思い出す。
「お礼に煮干しでもあげようかな」
もちろん一晩寝て、全部の疲れが取れたわけではない。けれど、歩くのもやっとだったわたしを家まで応援してくれた。お礼のひとつでもしても、バチは当たらないだろう。
ゴミを出すついでに煮干しを持って、猫の姿を探してみることにする。
だけど、猫一匹といってもそう簡単に見つかるものではなかった。アパートの周りを探してみたけれど三毛猫どころか猫の姿はない。
夜だったらまた会えるのだろうか。ただの気まぐれだったのだろうか。確かめる方法はなかった。
ともかく、今日も朝から予定が詰まっている。面接には電車で一時間かけて行かなければならない。わたしはスーツに着替えて、駅に向かった。
十時間後。昨日と同じ夜道をぐったりと気落ちしたまま歩く。
「はぁ、今日もダメだった……」
面接は返事を聞くまでもなく、不採用だろう。面接をした社長の渋い顔が忘れられない。今日のバイトはなんとかこなしてきたけれど、電車を降りた途端、緊張の糸が切れたと同時に苦い面接の記憶が蘇った。
そもそも、特技も持っていないわたしにとって再就職は難しいのだ。履歴書には目立った資格はなく、コミュニケーション能力が特別高いわけでもない。つまり、面接で気の利いたことが言えない。
やっぱり再就職なんて出来ないのかも。このまま、フリーターとして働いていく道も考えないといけないのだろうか。
「でもなぁ……」
特別好きでもないレストランのバイトは、失敗続きで愛着も起きない。だからといって、やりたいバイトがあるわけでもなかった。
わたしはなんでこんなにも何も無いのだろう。学生時代はレールの上をずっと走っているだけで良かったのに。レールが無くなった途端に、全く上手くいかない。
また、胃の底から大きなため息が喉元にまでせり上がってきた。
でも、その前に「なあん」と可愛らしい声が聞こえる。
「あ、また」
俯いていた顔を上げると、そこはアパートの前で階段に三毛猫が前足を揃えて座っていた。まるで、わたしを待っていたみたいだ。
「君はどこの猫なの? 人懐っこいから飼い猫?」
近づいてみるけれど、首輪はないように見える。
「煮干しは部屋にあるから、待っていてね」
頭を撫でようと手を近づけた。けれど、三毛猫は避けるようにするりと手をかいくぐる。そのまま、わたしの足にまとわりついてきた。
「撫でられるのは嫌なのかな。まあ、いいや。部屋に行かないと煮干しはないからね」
三毛猫を待たせて、赤い鉄階段を上っていく。昨夜よりも足は重くない。けれど、また三毛猫は昨夜のように一つ階段を上がる度に身体を擦り付けてきた。
「くすぐったいよ」
思わずくすくすと笑ってしまう。少し固い質感の毛がスルスルと足を撫でる度に、足を運ぶのが勿体なく感じる。昨日とは打って変わって、軽々と階段を上りきった。
「待っていて。すぐに取って来るから。……あ」
わたしが振り返ると、三毛猫は自分の仕事はやり遂げたとばかりに階段を下りていった。
「ご褒美あげたかったのに……」
煮干し程度なら、いつでも他の家で貰えるのだろうか。もしかしたら、明日も来るかもしれない。家に入ると、煮干しを袋に入れて鞄に入れておいた。
次の日。今日のバイトは昼のシフトだ。十時過ぎに家を出る。
鞄に煮干しが入っているか確認する。もちろん、ちゃんと入っていた。夜遅くならないから、あの三毛猫はやってこないかもしれない。
でも、三毛猫のおかげで昨日の失敗を引きずらずにバイトにも行ける。
「おはようございます!」
レストランの裏口から入って厨房に声を掛けた。
「あ、南さん。おはよう。実は――」
オーナーの奥さんが困った様子で話す。どうやら、急病でバイトを休む人が出てしまったようだ。つまり、いつもよりも少ない人数でホールを回さないといけない。
代わりの人もまだ見つからないそうだ。
「南さん、誰か紹介出来る人いないよね」
「いきなりには……」
急に不安になった。また、大きな失敗をしてしまうかもしれない。忙しいランチ時は、ただでさえ慎重に仕事をしているのだ。
少なくとも、いつも以上に混み合いませんように。
だけど、わたしの祈りとは裏腹に人気のレストランのランチには、開店前から行列が出来ていた。
目まぐるしい忙しさだった。とにかく注文を間違わないようにすることだけには、特別に注意する。そうすると、仕事が遅くなってしまう。レジが遅れてしまったり、注文をお願いされていることに気づかなかったりした。
それでも午後の一時半になり、客足も落ち着いてくる。もうすぐランチが終わる午後二時になる。わたしはお客様が食べ終わった食器を片付けて、厨房に運んでいた。
けれど、腕時計の針に気を取られてしまったわたしが悪い。何もないのに足がもつれてしまった。
「あっ!」
何とか踏ん張って転ぶことは避けられた。でも、皿の一つがわたしの手から離れてしまう。落ちていく皿がスローモーションのように見えた。
――ガシャン
派手な音を店内に響かせて、皿は床に落ちてしまう。
割れてしまった。それだけならいい。中にはハンバーグソースがかなり残っていた。濃い茶色のソースが飛び散ってしまう。
わたしの黒いズボンがソースで濡れる感触がした。
やばい。皿が割れちゃった。わたしも汚れたし、弁償しないと。こんなときどうすればいいんだったっけ。
「も、申し訳ありません!」
思考した分遅れて、近くにいたお客様に視線を向ける。近くにいたのは、お年を召したお年寄りの女性一人だ。テーブルクロスにソースが飛んでいるので、彼女のスカートにもソースが飛んでいるだろう。
「ああ。少しついているけれど、これぐらい大丈夫よ。それよりも、割れたお皿で怪我をしていない?」
「い、いいえ。わたしは……大丈夫です」
なんだか情けなくなった。わたしは割れた皿の弁償のことや自分の汚れたズボンのことを最初に考えたけれど、汚れされたおばあさんはわたしのことを最初に心配してくれた。仕事が出来ない上に、自己中心的だなんて救われない馬鹿だ。
店の奥からオーナーの奥さんが出てきた。お客様たちに一緒に謝ってくれる。汚してしまったおばあさんの料理のお代は頂かないことでお詫びすることにした。もちろんわたしのバイト代から引かれる。お皿とテーブルクロスは、新しいものではないからと弁償しないでいいと言われた。わたしのせいだというのに、弁償のお金を貰って欲しいとはわたしは言えなかった。バイトが終わる頃には、わたしの表情は完全に消えていた。
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