猫とステップを踏めば

白川ちさと

第1話


 運がないときは、とことん神様に見放されている。


 わたし、――南晴流は、自分のツキの無さにうんざりしながら、バイト帰りの夜道を歩いていた。足は丸太のように重く、一歩踏み出すのもなけなしの気力を振り絞っている。


 慣れないレストランのバイトは、失敗続きだ。


 オーダーとは違う料理を運んでしまったり、掃除でバケツをひっくり返して転んでしまったり。今日なんて、手が滑って危うくワインをお客様の服にこぼしそうになった。もし本当にこぼしていたら、クリーニング代を支払うだけでは済まないだろう。


 もちろん、オーナーには失敗の度に怒られている。それもこれもバイトをしないといけないのは、以前勤めていた会社が潰れたからだ。就活もしているけれど、中々上手くいかない。バイトを変える余裕もなく、貯金の残高だけがじりじりと減っていくばかり。




「はあ……。早く、新しい職場見つけないと……」




 ため息を吐くことすら重苦しかった。きっと、目に見えて重たい空気を背負っているから、採用されないのだ。そうは思っても、自分で振り払う術さえ持っていなかった。


 闇の中で一段と光っている蛍光灯。わたしが家に帰って来た目印にしている。

蛍光灯が照らしているのは、古いアパートの鉄階段だ。所々錆びている赤っぽいペンキが塗られた階段だ。


 突然職が失われ、節約するためにこのアパートに越してきたのだ。引っ越してきてから一か月経っているが、まだ自分の家だという意識は少ない。愛着もないアパートは、住人も多くはなく、交流も皆無。二階のわたしの部屋は陽当たりも悪かった。


 安いのだから、一階にすればよかった。一階は物騒かと思ったけれど、これほど古ければ二階であろうとセキュリティも何もない。バイト終わりだと、錆びた階段を上るのも一苦労する。


 カツン、カツン――


 自分が立てた音が、闇に吸い込まれていく。片耳で聞きながら、わたしは重い足を一歩ずつ持ち上げて階段を上っていた。


 あまりに下を見過ぎていて、それが階段の途中にあるとは気づかなかった。




「あれ……?」




 三毛猫が階段のステップの真ん中にちょこんと座っている。まっすぐこちらを見つめていて、まるで通せんぼをしているようだった。




「えっと、ごめんね。通してください」




 三毛猫には何か意思があるような気がして、ひと言断りを入れないといけないと自然に思った。すると猫は言葉が通じたように動き出す。階段のステップを使って、まるで準備体操をしているように腕をうんと伸ばして伸びをした。


 どいてくれるようだ。


 そう思ったけれど、三毛猫はスルスルと階段を下りて来てわたしの足にまとわりついてきた。




「うわ。ちょっと、危ないよ」




 わたしも猫は嫌いではない。もしも昼間でこんな風に懐かれたら、膝を曲げてあごの下でも撫でただろう。


 だけど、今は夜で階段の途中だ。それも、わたしは疲れていて足の踏ん張りも効かないかもしれない。それでも、わたしが履いているズボンに三毛猫は身体を擦り付けていた。




「しょうがないな」




 わたしは階段の手すりにつかまり、ゆっくりと三毛猫を踏まないように階段を上がり始める。


 カツン、カツン――


 踏むかもしれないと心配していたのは杞憂だった。わたしが階段を上がるときは後ろのステップに回り、道を開けてくれる。一歩上がる度に身体を擦り付けて、わたしを労わってくれているような仕草だった。




「ふう。やっと上がれた。ありがとうね、猫ちゃん……あれ?」




 階段を上りきると足元にいた猫が居なくなっている。振り返ると、三毛猫はシュルシュルと軽やかな足取りで階段を下りて行っていた。まるで、わたしが家に着くと役目は終わったと言わんばかりだ。


 変な猫だ。ともかく帰りついたわたしは、鍵を取り出して部屋に入る。雑にシャワーを浴びて、泥のように眠りについた。



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