第2話 お忍びの客

 昼間の喧騒が消えた花陽ファヤンの夜。

 静けさの中で、男の香りだけが異様な存在感を放っていた。

 安息香アンシギャンに似た香りの奥に、微かに沈香チムヒャンの苦味。

 さらにその奥には、鋭さが潜んでいる。


「眠れないのですか?」


 ソヒの問いに、男は少しだけ目を細めた。

 笠の下から覗く瞳は夜の海のように冷ややかで、どこか寂しげだった。


「……どうしてそう思う?」

「香りがそう言ってます。あと、目の下の影が“夜更かし常習犯”だって告げています」


 男は暫し黙り込む。

 ソヒはその沈黙の中に、僅かな戸惑いと興味を感じ取った。


「では、試してみよう。お前の『香』とやらを」


 ソヒは棚から数種の香油を取り出し、手早く調合を始めた。


白檀ペクタン二滴、竜脳ヨンノ一滴、甘松カムソン一滴、沈香チムヒャン一滴……最後に薄荷パッハを一滴。はい、これで“眠れない若様専用”の出来上がりです」


 部屋にふわりと香りが広がる。甘く温かく、芯にひんやりとした清涼感を宿した香り。それは心のざわめきを鎮め、深い眠りへと誘う香だった。

 男は目を閉じ、ゆっくりと息を吸い込む。その肩が僅かに緩んだ。


「……不思議なものだな。まるで霧が晴れていくようだ」

「香りは心の奥に届きます。言葉よりも深く、静かに。……まあ、人間の言葉はだいたいが嘘ですしね」


 ソヒの声は柔らかく、しかし皮肉を孕んでいた。

 男は瞼を押し上げ、ソヒをじっと見据える。

 ソヒは出来上がった香油ヒャンユを小瓶に注ぎ、差し出した。


「これを寝る前にこめかみに塗って、深呼吸して目を閉じて下さい。きっとよく眠れます。……もし眠れなくても、返金はできませんけど」


 男は笑いを堪えながら、銅銭を机に置いた。


「名を、聞いても?」

「ソヒと申します」

「……ソヒ。覚えておこう」


 袖口から覗く絹の刺繍、指に光る玉の指輪、笠の紐に揺れる翡翠の飾り――。 (この人……高貴な身分にしては、眠れないなんて庶民的ね)


 戸の手前で男が振り返った。


「また会おう、ソヒ」


 ソヒは胸の奥がほんのり温かくなるのを感じた。

 戸が閉まる音が夜の静寂に吸い込まれ、残り香が店の中に漂う。

 安息香の甘さに沈香の苦味。だが嗅ぎ慣れた調香ではない。その奥に潜む鋭さが、ソヒの心に小さな警鐘を鳴らしていた。


「この香り……どこか歪んでる。……いや、調合下手な人が混ぜたのかも」


 香りは語る。人よりもずっと正直に。

 ソヒは香炉の火を見つめながら、胸の奥に『正体のない影』をしまい込んだ。


 *


 王宮内にある寝所の一室。


媽媽マーマー、何かお持ち致しましょうか?」

「いや、今宵はもう下がってよい」

「承知致しました」


 尚宮サングンが寝室を後にし、扉が閉まると、男は香月堂で調合して貰った香油を手のひらに取り、こめかみにそっと塗る。香りに包まれ、胸の重さがほどけた。

 男の名は、リョン。この国の世子セジャである。

 彼が香月堂を訪れたのは偶然ではなかった。

 昼間、女官のひとりが『腕の立つ薬香師がいる』という話をしていたのを偶然聞いた。

 眠れぬ夜を重ねた世子は、その言葉に導かれ、店じまいの頃にお忍びで訪れたのだった。

 

 ――――――

 ✦ 用語解説 ✦

 ・安息香アンシギャン:樹脂から得られる香材。鎮静作用がある。名前ほど安息できないことも。

 ・沈香チムヒャン:高級香木。健胃、鎮静、制吐などの作用がある。香りは極上、でもお値段も極上。まさに“香りの王様”。

 ・甘草カムチョ:鎮咳、去痰、消炎などの作用がある。薬箱の常連。地味だけど、いないと困る縁の下の力持ち。

 ・翡翠ピチュィ:高級宝石の一種。装飾品として用いられる。身ばれの危険を伴います。換金する際はご注意を。

 ・世子セジャ:王の正統な世継ぎ。何もかも恵まれていると思われがちだが、常に命を狙われる危険職。側室の座を狙う女官が言い寄って来ることも……?

 ・媽媽マーマー:王族の人を呼ぶ時に使う呼称。「お母様」じゃなくて、王族専用の“お上品な呼び名”です。

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2026年1月20日 18:20
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香宮秘録 〜薬香師・ソヒ、宮中の闇を嗅ぎ分けます〜 蓮条 @renjoh0502

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