香宮秘録 〜薬香師・ソヒ、宮中の闇を嗅ぎ分けます〜

蓮条

第1話 香月堂の薬香師 ソヒ

 景和キョンファ王朝の都・花陽ファヤン

 夜明け前の街はまだ眠りの中にあった。

 空は墨を流したように濃く、瓦屋根が静かに沈んでいる。

 だが東の空が白み始めると、炊き出しの煙が立ち、威勢のいい豆腐売りの声が響き、街はゆっくり目を覚ました。


 薬舗ヤクパン 香月堂ヒャンウォルダンの店先にも、朝の光が差し込み始めていた。

 木の格子窓から射し込む陽が、棚に並んだ香袋ヒャンジュモニを柔らかく照らす。その中央に、静かに佇む娘がいる。


 彼女の名は、ミン 書熙ソヒ。香月堂の薬香師ヤッヒャンサ

 まだ十七の若さながら、彼女の調合するヒャンは、両班ヤンバン(貴族)の間で密かな評判を呼んでいる。



「この香袋、ちょっと香りが違うような……?」


 昼下がり、店を訪れた女官ニョクァンが、手に取った香袋を鼻先に近づけて言う。ソヒは微笑み、棚の奥から別の袋を取り出す。


「今朝、調合を変えました。白檀ペクタンを控えめにして、黄柏ファンベクを加えています。最近、眠りが浅いご様子でしたので」


 女官は目を丸くする。


「……どうして分かるの?」

「衣に残る香りが乱れてました。それに目の下に影が。あと、豆腐屋の声に反応してませんでした」

「豆腐屋?」

「眠い人は豆腐屋の声に気づかないんです。私の統計では」


 女官は吹き出しそうになりながら銅銭を置き、『また来るわ』と言い残し、店を後にした。

 ソヒは香炉の火を見つめ、ふうと息を吐く。

 香りは嘘を吐かない。人間は……まあ、よく吐くけど。


 幼い頃から彼女は匂いに敏感だった。

 ――あの匂い、いやだ。

 ――この人、怒ってる。

 そんなことを口にする度、大人たちは顔をしかめた。


『生意気』『気味が悪い』

 やがて、両親でさえ彼女を気味悪がり、ソヒは山奥の寺に預けられた。

 人の声より香の方が信じられる――そう思うようになったのも、この頃だった。

 その寺で、彼女は初めて『香り』に名前があることを知った。

 白檀ペクタン丁子チョンヒャン桂皮ケピ麝香サヒャン――。

 和尚は彼女の嗅覚と記憶力に驚き、薬草や香の調合、医術の基礎まで教えた。

『お前の鼻は、仏の声を聞くためにある』

 そう言って笑った和尚の顔を、ソヒは今でも忘れない。


 寺には時折、両班ヤンバンの奥方(パク美善ミソン)が訪ねて来た。彼女は菩提寺であるその寺の支援者であり、病弱な体を癒すために香や薬茶を求めていた。


『この香り……春の雨上がりみたいね』

 その言葉にソヒは思わず「雨上がりは泥臭いですよ」と返してしまい、夫人は吹き出した。

 それからというもの、パク夫人は何度も寺に足を運び、ソヒに香の感想を丁寧に伝え、毎回お礼にと菓子を手土産に寺を訪れたのだった。

 やがてパク夫人の口利きで、ソヒは花陽ファヤンの街へ降り、香月堂に迎え入れられた。

 ――それから三年。

 香月堂の名は広まりつつあったが、ソヒは表に出ることを好まなかった。

 香りは人より正直。人間は……まあ、よく嘘を吐くから。


 *


 とある日の夜も、いつものように店を閉めようとしていた。

 灯りを落とし、香炉ヒャンノの火を消し、戸を閉めかけた、その時――。


「まだ、間に合うか?」


 低く、澄んだ声がした。

 視線を持ち上げると、戸の向こうに男が立っていた。

 

 深藍の絹の道袍トポ(外衣)を纏い、黒いカッを被っている。

 翡翠ピチュィの玉飾りが揺れ、白い太史鞋テサヘ(革靴)を履いている。

 その立ち姿は凛としていたが、纏う香りには影があった。


 ――甘い。けれど不穏。

 安息香アンシギャンに似ているが、焦げた匂いが混じっている。

 ソヒは思わず鼻をひくつかせた。


「……お洒落なのに、香りはちょっと残念ですね」


 ソヒの言葉に、男の眉がぴくりと動いた。


 ―――――

✦ 用語解説 ✦

景和キョンファ王朝:物語の舞台となる架空の王朝。平穏を願う名のもとに、静かに火種がくすぶっている。

花陽ファヤン:景和王朝の首都。昼は賑わい、夜は静かに囁きが巡る、香と陰謀の交差点。

香月堂ヒャンウォルダン:薬香を扱う店。ソヒが働く場所。帳簿より正確な嗅覚を持った看板娘がいます。

薬香師ヤッヒャンサ:香材を調合し、人の心身を整える専門職。鼻が良すぎる人専用の職業。

・女官:宮中に仕える女性。あわよくば的に妃の座を狙う者も多い。

両班ヤンバン:支配階級の一つ(貴族)。威張るのも仕事のうち。

白檀ペクタン:高級香材、甘い香り。財布には甘くありません。

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