香宮秘録 〜薬香師・ソヒ、宮中の闇を嗅ぎ分けます〜
蓮条
第1話 香月堂の薬香師 ソヒ
夜明け前の街はまだ眠りの中にあった。
空は墨を流したように濃く、瓦屋根が静かに沈んでいる。
だが東の空が白み始めると、炊き出しの煙が立ち、威勢のいい豆腐売りの声が響き、街はゆっくり目を覚ました。
木の格子窓から射し込む陽が、棚に並んだ
彼女の名は、
まだ十七の若さながら、彼女の調合する
*
「この香袋、ちょっと香りが違うような……?」
昼下がり、店を訪れた
「今朝、調合を変えました。
女官は目を丸くする。
「……どうして分かるの?」
「衣に残る香りが乱れてました。それに目の下に影が。あと、豆腐屋の声に反応してませんでした」
「豆腐屋?」
「眠い人は豆腐屋の声に気づかないんです。私の統計では」
女官は吹き出しそうになりながら銅銭を置き、『また来るわ』と言い残し、店を後にした。
ソヒは香炉の火を見つめ、ふうと息を吐く。
香りは嘘を吐かない。人間は……まあ、よく吐くけど。
幼い頃から彼女は匂いに敏感だった。
――あの匂い、いやだ。
――この人、怒ってる。
そんなことを口にする度、大人たちは顔をしかめた。
『生意気』『気味が悪い』
やがて、両親でさえ彼女を気味悪がり、ソヒは山奥の寺に預けられた。
人の声より香の方が信じられる――そう思うようになったのも、この頃だった。
その寺で、彼女は初めて『香り』に名前があることを知った。
和尚は彼女の嗅覚と記憶力に驚き、薬草や香の調合、医術の基礎まで教えた。
『お前の鼻は、仏の声を聞くためにある』
そう言って笑った和尚の顔を、ソヒは今でも忘れない。
寺には時折、
『この香り……春の雨上がりみたいね』
その言葉にソヒは思わず「雨上がりは泥臭いですよ」と返してしまい、夫人は吹き出した。
それからというもの、パク夫人は何度も寺に足を運び、ソヒに香の感想を丁寧に伝え、毎回お礼にと菓子を手土産に寺を訪れたのだった。
やがてパク夫人の口利きで、ソヒは
――それから三年。
香月堂の名は広まりつつあったが、ソヒは表に出ることを好まなかった。
香りは人より正直。人間は……まあ、よく嘘を吐くから。
*
とある日の夜も、いつものように店を閉めようとしていた。
灯りを落とし、
「まだ、間に合うか?」
低く、澄んだ声がした。
視線を持ち上げると、戸の向こうに男が立っていた。
深藍の絹の
その立ち姿は凛としていたが、纏う香りには影があった。
――甘い。けれど不穏。
ソヒは思わず鼻をひくつかせた。
「……お洒落なのに、香りはちょっと残念ですね」
ソヒの言葉に、男の眉がぴくりと動いた。
―――――
✦ 用語解説 ✦
・
・
・
・女官:宮中に仕える女性。あわよくば的に妃の座を狙う者も多い。
・
・
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます