春はまだ彼方遠く


「イルヴァ。僕を後継者にするのは不味いですよ」

 

 真剣な弟子の言葉に、それまで読んでいた文献を持ったままイルヴァはきょとんとして、手元にあった紙筒を広げる。

 

「ええ、どれどれ。すでに3715回、その台詞言ってるらしいぞ」

「わざわざカンニングしないでください」

 

 その羊皮紙の筒は、少年との出来事を書き留めた、数枚に及ぶ日記である。何を伝え、何を授けたか。事細かにイルヴァは記したが、かなりどうでもいいことまで書き留めるので分量が多い。

 

 イルヴァは紙をまた丸めて革ひもで縛ると、

「つまり、だ。3716回目も同じ返答をしてやるって言っているんだよ」

 

 この台詞も3715回目である。揶揄からかっているような軽い口どりも同じである。少年は呆れたように深く嘆息して、言葉を継いだ。

 

「あなたみたいな奇特な人間でない限り、僕と話そうなんてしないし、話したとしても覚えようともしません。弟子としては相応しくありません」

 

 精霊使いのわざは、弟子が語り継がねば、そこで絶えてしまう。弟子として共に薬の調合を行うようになってから少年は何度も感じるようになっていた。イルヴァの考え出した配合は突拍子もないものが多いが、絶やすには惜しいものがある、と。

 

 だと言うのに、イルヴァはからからと笑って、 

「大丈夫だって。精霊使いなんて好奇心の権化みたいなヤツばっかなんだから、フォンでもいけるいける」

「好奇心の有無なんて、初対面だとわかりませんよ」

「村や町の真ん中で言ってやればいい。僕は迷い人だぞ!って。目をキラキラさせて近寄ってきたヤツがきっと弟子に相応しい」

「僕に何をさせようとしているんですか!」

 

 と思わず鉄拳をイルヴァの頭上へ振り落とす。

 そんなことをすれば、学問的興味をそそる前に、危険人物として危険信号を掻き立ててしまう。遠巻きに見たのち、逃げられるのが目に見えて浮かぶ。

 

 だがやはり、イルヴァは引く気がない。唇を尖らせそっぽを向いて言葉を続けた。

 

「あたしはあんたが気に入ったんだから、それでいいんだよ。微妙な調節はあたし以上に巧いし、飯は美味いし掃除もできるし。小言がちょっと多いけど」

「最後のほう、弟子とは関係ないですよね」

「そうだったかな」

「……後悔しても、知らないですからね」

 

 そして結局、1116回目の説得も失敗に終わるのである。

 とは言え、少年もまた本気で先生でもある精霊使いを説得していなかった。

 

 ずっと、ずっと独り彷徨っていた。来る日も来る日も周囲は他人ばかりで、同じような日々を過ごす。何度狂ってしまえたらよかっただろうと思った。もしかすれば、本当に気がおかしくなった時もあったかもしれない。けれども突然に我に返る日はやってきて、また誰の記憶にも刻まれない無意味な時をただただ過ごして生きて行く――さくまよびと時間ときにも、そして死にすらも忘れられているのだ。

 だから、来る日に自分へ同じ名を呼び掛けてくれるイルヴァが手放せなかった。どうせすぐ終わる関係だ、なんて考えた過去のおのれが憎らしい。少年は今さらに後悔した。そしていつかは、この場を去らねばならぬとわかっていた。


 この関係は、


(今日は、さくか)

 

 だんだんに冷たくなってきた風に、少年は身震いする。星のまたたく夜空には、彼の瞳と同じ色をした星がない。

 

(今回は長いな。でも、そろそろかな)


 忘れられてしまう周期はまちまちだ。一日の時もあれば、一月ひとつきのときもある。だが、一年以上続くことだけはなかった。それは既に、イルヴァで厭と言うほど経験した。だから年の終わりまで記憶が続くと、少年は予見して村を離れ、近くの村へ身を寄せて覚悟を決めて翌朝に備えていた。そうしないと、悲しくなって泣いてしまいそうだから。

 

(夜は嫌いだ)

 

 年の終わりになるまで、毎日のように少年は夜に怯える。明日、イルヴァが他人の顔をしているかもしれないから。声を掛ければ、イルヴァは記録を見て少年を理解しようとしてくれるし、少年を決して突き離さない。それでもやはり、苦しくなる。


 

 厭な予感とは当たるものである。

 翌朝になって、イルヴァは他人になっていた。


「おや、お前さんは誰だい?」

 

 イルヴァは小皺の寄った目を瞬かせて、少年を見た。少年はにっこりと微笑んで、いつもの通りに言うのだ。

 

「はじめまして、あなたの弟子になりたくて、来ました」

「……あんたが日記にあった弟子だね。お入りよ」

 

 と言いながらも、イルヴァは断ることなく、少年を再び家に招き入れる。そうして少年はまた彼女の新しい弟子になり、彼女もまた師となり、言うのだ。

 

「じゃあ今日は、どの調合をお願いしようかね」

 

 今日はマルヤ婆さんの腰の薬を、今日はカーニー爺さんの肘の薬を。そうイルヴァは言って、少年が精霊石を砕き、陽にさらし、熱し、そして混ぜ合わせる。

 他人の顔をされるのは辛いことだけれども、この穏やかな日常が訪れるたびに少年は満たされていた。少年は、幸せだった。


 だが朔の夜の迷い人は、何にも刻まれない。

 その時は突然にやってくる。


 それは出会った頃のような、春の雨の日。否。出会った時よりもずっと、雨脚の強い春の嵐の日。少年は皺くちゃの、枯れ木のようなイルヴァの手をぎゅっと握って声を上げた。

 

「イルヴァ、逝かないでください。置いて行かないで」

「……変わった子だねぇ。この間出会ったばかりだというのに」

 

 歳を取り、イルヴァは目がほとんど見えなくなっていた。ゆえにある年から、少年は本当の「はじめまして」を繰り返していた。そしてこの年。イルヴァは病に仆れた。近隣の村の精霊使いいわく、「老い」のためなのだという。

 

 老い。

 それは、時間ときにも刻まれない少年にはないものだ。少年は泣きじゃくり、白髪になったイルヴァに寄りすがった。女は優しく少年の頭を撫でて言った。

 

「人間なのだから、当たり前さね。あたしはあんたよりうんと歳が上なんだから、先に逝くのは自然の摂理さ」

 

 その摂理がどうして、おのれには当て嵌まらないのか。少年はいつか訪れると知っていた現実に、絶望した。どうか置いていかないでと、慟哭どうこくした。





 

 春の終わり。

 あの大雑把で、自分勝手で変わり者な精霊使いは冷たくなって、遠い何処かへと行ってしまった。少年は独り、冷たい土の下へ葬られて行くイルヴァの姿を見守っていた。涙は枯れた。声も出ない。

 あの長く続いた冷雨れいうもすっかり止んで、透き通った鮮やかな青い空が目映まばゆい。その空の下、同じように鮮明な色を放つマリーゴールドの花が咲き誇り、少年の心をいっそう虚しくさせる。春の雨は、この哀情は洗い流してくれないらしい。


 朔の夜の迷い人。

 すべての理から忘れ去られた哀れな旅人。


 少年はまた、流離さすらい、彷徨さまよう。

 彼が本当の希望と出会うのはずっと先の話。

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朔の夜は春の冷雨に哭く 花野井あす @asu_hana

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