プロローグ その日、私は空から落ちてきた。
目を覚ましたとき、私は空を飛んでいた。
――いや、正確には、落ちていた。
ふわり、と風が頬を撫でる。
目の前に広がるのは、見たことのない空の色。紫と青が混ざり合ったような、不思議なグラデーション。雲は逆さまに流れ、地平線の向こうには、黒く尖った山々が連なっていた。
「……え?」
自分の声が、風にさらわれていく。
制服のスカートがばたばたと翻り、足元にはどこまでも続く深い谷。落ちているのに、なぜか怖くない。むしろ、夢の中にいるような気分だった。
――ああ、そうだ。私、たしか……。
* * *
その朝、私はいつも通り、目覚まし時計の音で起きた。
「……ふわぁ……あと五分……」
布団の中でごろごろと転がりながら、もう一度目を閉じる。
けれど、すぐに妹の声が飛んできた。
「お姉ちゃん!また寝てるでしょー!遅刻するよ!」
「うぅ……してないよ……まだ大丈夫……」
「もう七時半だよ!」
「えっ」
跳ね起きて、時計を見た。針はしっかりと“7:32”を指している。
制服に着替え、髪を結びながらトーストをくわえ、リビングに飛び込む。
「おはよう、ひより!ありがと、起こしてくれて!」
「もう〜、お姉ちゃん、毎朝これだもん」
中学二年生の妹・ひよりは、しっかり者で、私の生活の要だ。
私はというと、のんびり屋で、朝がとにかく弱い。
でも、ひよりがいてくれるから、なんとか毎日を回せている。
「お弁当、ちゃんと持ってってね。今日は卵焼き、甘めにしておいたよ」
「ありがとう〜!ひよりの卵焼き、世界一好き!」
「はいはい、いってらっしゃい」
私は玄関で靴を履きながら、ひよりに手を振った。
いつも通りの朝。いつも通りの、ちょっと慌ただしい日常。
* * *
学校では、特に目立つタイプではなかった。
友達は何人かいるけれど、どちらかというと聞き役。
図書室で本を読んだり、昼休みに中庭でお弁当を食べたり。
そんな静かな時間が、私は好きだった。
「結城さんって、ほんと優しいよね〜」
「えっ、そうかな?」
「うん、話してると落ち着くっていうか。なんか、空気がやわらかくなる感じ?」
そう言って笑ってくれた友達の言葉が、少しだけくすぐったかった。
私は特別なことなんてできないし、目立つのも苦手だけど、誰かの役に立てるなら、それでいいと思っていた。
* * *
その日の放課後、私は図書室で借りた本を返してから、駅へ向かった。
空はどんよりと曇っていて、ぽつぽつと雨が降り始めていた。
「傘、持ってくればよかったなぁ……」
制服の上にカーディガンを羽織り、鞄を頭に乗せて小走りで横断歩道へ向かう。
信号が青に変わり、私は足早に渡り始めた。
そのときだった。
――視界の端に、何かが飛び込んできた。
ブレーキ音。
タイヤがアスファルトを擦る、鋭い音。
誰かの叫び声。
そして、目の前が、真っ白になった。
* * *
次に目を開けたとき、私は空を飛んでいた。
――いや、やっぱり、落ちていた。
風が頬を撫で、制服のスカートがばたばたと音を立てる。
見たことのない空、見たことのない大地。
私は、どこか知らない場所へと、まっすぐに落ちていく。
「……夢、だよね?」
そう思いたかった。
でも、頬を打つ風の冷たさも、胸の奥のざわめきも、あまりにリアルだった。
やがて、視界が白く染まり、意識がふっと遠のいていった。
* * *
次に目を開けたとき、私はふかふかのベッドの上にいた。
天井は高く、黒曜石のような光沢を放つ石造りの壁。
窓の外には、赤い月が浮かんでいる。どこかで鐘の音が鳴っていた。
見たこともない世界。けれど、不思議と怖くはなかった。
「……ここ、どこだろう」
起き上がろうとしたそのとき、扉が音もなく開いた。
「目覚めたか、聖女よ」
低く、冷たい声。
振り返ると、そこには漆黒のマントを翻した男が立っていた。
銀の髪、深紅の瞳。まるで夜そのものを纏ったような存在感。
「お前が、我が魔界に降り立った“聖女”か。……随分と頼りなさそうだな」
私はぽかんと口を開けたまま、彼を見つめた。
――え、魔界? 聖女? この人、もしかして……。
「……魔王様?」
思わずそう呟いた私に、彼は眉をひそめた。
「“様”は要らん。呼び捨てで構わん。……それより、茶は飲めるか?」
「……え?」
「茶だ。飲むかと聞いている」
私は、きょとんとしたまま、こくりと頷いた。
こうして、私の魔界生活が始まった。
おそらく、世界でいちばんのんびりした“聖女と魔王の物語”が――。
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