020 お友だちは、多い方が良いもんね

 妊婦……妊婦かあ。勘弁してよ。ぶつぶつ呟くミキが、銀の短剣を逆手に持ち直し、エリーに向けて振りかぶる。


「もっと手を汚さなきゃいけなくなっちゃったよ」


 冷酷に刃が降り下ろされた。


 その瞬間、ヘーゼルがミキの手首を掴む。ミキが肩を震わすほどに力をこめてもビクともしない。息の上がったヘーゼルの握力さえ、ミキには振り解けなかった。


「何のつもりかな」


 眼前の敵を捕捉したまま、背後の弟子に、平坦な声を投げる。


「ダメッス、若隠居」


 ヘーゼルの声が切迫していた。麻酔が抜けきっていない。ミキの腕を掴んだまま、ヘーゼルは身体を引きずるようにして、徐々に二人の間に割って入っていく。エリーを庇うために。


「情に絆されちゃ、それこそダメだよ。吸血鬼につけ入る隙を見せちゃあね」


「赤ちゃんは……!」


「吸血鬼のハッタリ。君の勘違いじゃないの」


「匂いが」


「君はそれで納得できてもね。この子が妊婦かどうか見分ける方法なんて、アタシにはないし。証明できる?」


「若隠居なら吸血鬼だけ追い出せるッスよ!」


「無理だね。ご意見箱はこちらに設置中で~す。アイデアがあるなら、どしどし物申してごらん」


「……とにかくダメッス!」


 うんざりと、ミキが溜め息を吐いた。


「あのねえ、生まれていなきゃ、命の数に入らないよね。無事に生まれる保証もないんだから」


 吸血鬼の子なら猶更だね。と口にしかけた。


「だから!」


 有無を言わさぬヘーゼルの語気が、ミキの二の句を遮った。


「だからみんな、無事に生まれたら泣いて喜ぶんじゃないスか!

 生まれたときだけじゃない。赤ちゃん、あっと言う間に死んじゃうから、すくすく育ってくれるだけで奇跡なんだって、姉ちゃんが言ってたッス!

 若隠居だってわかってんじゃないスか! だから大切にするって! 精一杯お祝いするって! 幸せなことなんだって!

 エリーの子は自分の甥っ子か姪っ子の友だちになってくれっかもしんねえのに! それを取り上げようってんなら、自分が許さねえッス!

 これからもっと賑やかになっかもしんねえのに、何でエリーにそんな冷たくするんスか!」


 言いたい放題声を荒げて子どもがワガママを通すように、ヘーゼルは一息でまくし立てた。興奮し、怒りと涙が混然とした激情で、ヘーゼルはオオカミの一面を露わにしていた。


 獣の膂力が、短剣の持ち手を変色させるほど握り締める。ヘーゼルの本能が先走っていた。背中越しにでも、ミキのどす黒い覇気の渦が肌に迫るようだ。


 苦悶の息が、ミキから漏れたかに聞こえた。ふと、覇気が鎮まった。


「アッハハハハ!」


 重く立ちこめる霧の中、快晴を呼びそうなほど闊達に、ミキは腹をよじって大笑いした。ヒー、お腹痛い、ヒー……! ミキを囲う一同が呆気にとられる中、満足するまで笑い尽くしたミキは、仮面の下で涙を拭いて一息ついた。


「いや、ヘーゼル。すごいや。君ってば、学ばせてくれる弟子だね。うん、そうだね。お友だちは、多い方が良いもんね」


 放した短剣が、水に落ちた。ヘーゼルの拘束が緩んだ隙に、ミキはぬるんと手首を抜いた。


「拾っといて、ヘーゼル先生せーんせ


「あの、若隠居」

 

 自由にさせて良いのか、ヘーゼルの手が迷う。遠慮がちに追い縋る手を、ミキはチョウの戯れに似た手つきでひらひらとすり抜けた。


「良い弟子を持ったおかげで目が覚めたよ。ありがとう」


 水鉄砲が飛んだ。両手で包む中に水を満たし、ギュッと握って飛ばす、手遊びの水鉄砲だ。


 ミキは短剣の代わりに、血の舌――吸血鬼を包囲させていた水の触手一本を呼び寄せ、それで手を洗う。その手慰みに撃った水鉄砲は、吸血鬼を狙っていた。


「おらっ! 死ねっ!」


【うおっ!?】


 血の舌がにゅるん、とエリーの喉に引っこんだ。反射的に嗚咽するエリーの顔に、水弾が命中する。


【いきなり危ねえだろ! イカレてんのか!】


 再びエリーの身体から出血する。血を通じて、明らかな狼狽がエリーに伝わった。


「え、今、どうなってます?」声の出所を探し、困惑するエリー。


「右耳から出ているね」


 執拗に水鉄砲で狙うミキが言う。また隠れ、今度は左耳から血が出た。鼻、右目、左目……エリーばかりずぶ濡れになっていく。


【良い加減にしやがれ! ガキか! オレぁ射的台じゃねえぞ!】


「私だってモグラの巣穴じゃないんですけど」疎外感から野次るエリー。


【引っこんでろ泣き虫女!】


 エリーと吸血鬼が言い合う隙に、ミキは顎に手を当てて軽く考えをまとめた。


「そうか。つまり、君……」数刻、止まる。手を胸に、一礼「申し遅れたね。護律官ミキ・ソーマ。ご婦人、君は?」


「え、エリー」こんな場面で自己紹介。戸惑うエリー。【待て】と吸血鬼。


【ふざけてんのか? 偽名だろ、それ】


「何を疑っているのか知らないけれど、正真正銘の本名だよ」


【は? マジ?】大仰にミキが頷き数瞬、腹がよじれそうな大笑いが上がる。【冗談だろ! 親を恨むべきだぜ! ミキソーマ! ぎゃはは! 辞書引いて意味調べてみろよガハハ!】


「覚えていたらね。それで、自称胤族くんの方は?」


【ククク、良いぜ。最高のジョークの礼だ。そんなに聞きたけりゃ教え】


「そういうの間に合ってるから」ミキは真剣に白けた。


【……アルフレッド・ヴァルケル】しゅんとした切なさが、血を介してエリーに伝わった。アルフレッド。ヘーゼルの話したおとぎ話の怪物と一緒だ。ヘーゼルもその名に反応している。


「よろしい。では、君たちの現状を整理しようか……」


 沈黙が続いた。エリーと、続いてヘーゼルがくしゃみをした。ミキが首を傾げる。


「そんなに聞きたけりゃ~、で解説してくれないかな? 一番詳しいだろう、アルフレッドくん」


【誰が言うか! 舐めてんのか!? さっきからよ!】


「ええ? 答え合わせが面倒なんだけれども……じゃ、単刀直入に言うけど。エリーさんは人間。アルフレッドは寄生しているだけ。そうでしょ?」


 血液を通して、エリーは居心地の悪さを覚えた。「どういうことスか」と、ミキがヘーゼルのために補足する。


「エリーさんの身体は水をかけても平気だったね。なのに、どうしてアルフレッドは水を必死で避けるんだろうね? 簡単さ。エリーさんの身体は人間のままだから水なんてどうってことない。アルフレッドは、エリーさんの身体を借りているだけなんだよ」

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