019 χαίρω χαριτόω

 フクロウの羽根が延々と舞い散っていた。


 谷底に降り立ったミキが、弟子を踏みつける女に向く。知らない顔だ。目が赤い。充血なんてもんじゃないね。侵入者の言う吸血鬼は、あれのことか。


 平気で水に浸かっている。


 妙だ。浸透圧差で血中組織が溶血を起こして、肉体の崩壊を招くはずなのに。まあ、ミキにしてみれば、だからどうだというものでもない。


 気安く、探りを入れてみる。


「夜分遅くに女の子が独り歩きかい。感心しないね」


「助けてください! お化けに襲われています!」


「目ぇ真っ赤にしてよく言えるね。これ全部、君がやったんでしょ」


 思わず抱きしめたくなる演技だったが、弟子を踏みにじる足をどけてからにして欲しいものだ。ミキは惨状を睥睨へいげいした。羽根の浮かぶまにまに、頭の潰れた死体、上下に両断された死体、鳥人の死体が散らかっている。


「普通の女の子なら、もっと支離滅裂で、なりふり構わなくなるよ。こんな現場だと」


 憐れを誘う被害者面が、瞬く間に冷めた。


「ダメ出しどうも。参考になりました。それにしても、独り歩きはお互い様じゃないかしら、拝露教徒アンスロピストのご婦人さん」


「あっは。懐かしい。歴史の授業以来かな。良く勉強しているね。それとも護律協会と名を改めたことを知らないのかな」


「あら、すみません。つい。ご覧の通り、辺鄙なところに住んでおりますと、アンティークばかりが現役でして」


 女は廃墟の街を示して、舞台女優のように振舞った。


「へえ。ところで、どこ住み? どこから来たのかな?」


「口説き文句に捻りがないですね」


 いたずらな目をして、女は下目蓋を引っ張り、舌を出した。あっかんべえ。


 儚げな外見と裏腹に、皮肉や挑発が板についている。見た目と言動の印象が食い違う場合は、吸血鬼の擬態を疑う。護律官なら誰でも、この違和感を見逃さないよう、訓練で叩きこまれる。


 ミキを拝露教徒と呼ぶ点もそうだ。吸血鬼の古老にありがちな知識の硬直に感じた。


 あるいは、老獪ろうかいを装って、本来の実力よりも強大だと、こうしてミキに誤解させるのが狙いか。


 いずれにしても、言い逃れは諦めているね。


 仮面で視線が隠れているのに乗じて、ミキは辺りに目を配る。水場に死体が残っているのは、吸血鬼化させていない証拠。


 吸血鬼化して間もない個体や重篤な飢餓状態の個体は、吸血衝動を抑制できずに無暗に繁殖する傾向がある。


 我慢が利くのは手練れ。


 品定めはこんなところか。


「で、その子のことだけれど。足をどけておくれよ。確かに敷物に映えそうな毛並みだけども、可愛い弟子なんだよね」


「お断りです」


「どうして?」


「そうしたらテメエ、迷わずオレを殺すだろうが」


 可憐な声でド汚い言葉遣いが返る。やれやれ。ミキはヘーゼルごと吸血鬼を激流の渦に閉じこめた。


 それってつまり、人質がいる限りアタシには手出しできない、って勝手な期待を白状したも同然だよ、吸血鬼ちゃん。ミキは心中で苦笑する。解放しないならしないで、ついでにちょっくら弟子を揉んでやるだけさ。別にこのくらい、ヘーゼルならどうってことないし。


 ……そう思うと腹が立ってきた。バカ弟子め、酒の恨みの恐ろしさを、骨身にまで思い知らせてあげるよ。


 半球状に隆起した水面に、身内に向けた私怨で更に荒れた激流が白く渦を巻く。水流に巻きこまれた羽根が半球の頂点で噴出し、羽根の雨が勢いを取り戻す。水中を流れる影が二つ。水の透明度は変わらず。溶血する様子はない。


 渦から離れたところで三つ、動きがあった。鳥人と上下両断死体がやおら起き上がり、覚束ない動きでミキに近寄ってきた。


「ありゃりゃ、結構頑張るね」


 血を注入し、遠隔で操る。吸血鬼の権能の一つである。だが、あくびの出るほど鈍い。注入量が少なすぎるのだろう。あえなく生ける屍たちは足元から凍り、彫像となる。


「さーて、そろそろヘーゼルを助けてあげないと。だけど……うーん」


 ど、ち、ら、に、し、よ、う、か、ねの、ねの、ね……。


「どうしよ。どっちがどっちだかこんがらがってきた……ええと……面倒! どっちか出ろ!」


 巻き舌でドラムロール。ミキは影に指を向け、これだという方を選ぶ。激流は選ばれた方を魚の骨のように吐き出した。ヘーゼルだ。


「よっしゃあアタシ持ってるぅ!」


 ガッツポーズもそこそこに、ミキは自分よりも体躯のあるヘーゼルを抱き留めた。


「おお? よい、しょ……。まーた大きくなったね、君ってば」


 微かにヘーゼルが身をよじる。息はある。「わか……いん……」意識も戻った。毛皮が皮膚の中に畳まれて、元のトラ縞模様が浮かぶ。では、遠慮は要らない。


 ヘーゼルのショルダーバッグを漁る。中から目当ての酒瓶を探り当てるやヘーゼルを突き飛ばし、ミキは今日一番の歓声を上げた。背後で激流の渦が瞬間凍結し、大輪の氷花が咲いた。


「ああ、怖かったろう。もう放さない」


 琥珀色が揺らめく瓶のラベルへ、ヴェール越しに熱烈な接吻を贈る酒カスであった。長時間冷所にあったせいか、酒に澱が沈んでいたものの、ヘーゼルが無事なら些末なことだった。


   】


「さて」


 瓶をベルトのホルダーに収納し、代わりに短剣を抜く。銀が主となる合金製の輝ける一振りで、教会時代から儀礼的に用いられてきた代物だ。人同士の争いや、日々の生活で用いるには頼りないものの、吸血鬼をことに屠る。


 フクロウの濡れ羽が降る中を、ミキは短剣を手に氷の大輪へ歩み寄る。水は彼女に道を空けて、潮のように引いていく。


「わか……待っ……」這いつくばって追うヘーゼルに水は応えず、ミキの通った後に押し寄せて、ヘーゼルを呑みこんだ。


 氷の花の中心に、磔となった若い女が項垂れていた。ミキは短剣の樋をその柔頬に当て、顔を上げさせた。意識を失う直前で耐える細目をしていた。おかしい。目が白い。銀に触れても火傷を負わない。


「さっきの死体と同じで、操られていただけかな? なら、本体は近くに……」


 磔の女から目を離した瞬間、その口から鋭い血の舌が伸び、ミキの頭があった空間を穿孔する。ミキは不意に膝から仰け反っていた。ヘーゼルのタックルを膝裏に受けて、辛うじて攻撃を回避できたのだ。


 水面から水の触手が伸び、血の舌を囲む。


「びっくりした。全く油断も隙もないね」


 水に仰向けで浮かび、ミキは死に直面した直後と思わせない快活さでカラカラ笑った。まるで種の割れた手品に御愛想で笑うようだった。


 背に敷いたヘーゼルの尻が項の辺りにある。「大儀である」なんて大仰な称賛をこめてぱんぱん叩いた。


 水から上がると、水滴は自ずとミキから離れて、祭服はすっかり乾いた。


「さ、次の演目は何かな? 吸血鬼ちゃん」


 語りかけると、血の舌に裂け目が生じ、簡易な顔が浮かんだ。顔が噛みつかんばかりに怒鳴る。


【吸血鬼って呼ぶんじゃねえ、食用種。オレたちはいん族だ】


「わーお、好い男の声だ」九死に一生を得たときよりも驚いてみせ、「アタシたちを食用種と呼ぶのと何が違うのかな? 吸血鬼くん」


 この騒ぎで、エリーが意識を取り戻した。氷で身動きが取れないことにも、見覚えのない仮面の人物と対峙していることにも驚いたが、何より自分の口から異物が伸びている様子に一等取り乱した。口が塞がっているせいで、むーむーと唸るしかできなかった。


 身体と血が、ちぐはぐに動いている。


「一人二役?」


 ミキが自称胤族に尋ねた。


【正真正銘、生きてるぜ】血が卑しく裂けて嗤った。


「うーん、だとしたら可哀そうに」ミキに応えて、水の触手がエリーの顔に向く。「ごめんね、お嬢さん。こいつ、君から出るつもりないだろうし、君と一緒に駆除しなきゃ」


「むー!?」涙目でエリーは仰け反り、必死に首を横に振った。


「そうだよね。でも、こいつを生かしておくと危ないからね。護律官ってそういう仕事だから。覚悟を決めておくれ」


「むー! むー!」


【そうそう、考え直した方が良いぜ。拝露教徒】エリーの首振りに合わせてヘビの如くくねる血が、喜色満面に口を挟む。「むー! むー!」エリーが同調し、首の振る方向を縦に変える。


「君は君でいい加減、護律官と呼ぶことを覚えなよ……あ、覚える必要ないか」


 銀の短剣が、閃いた。


「赤ちゃん!」


 振り下ろされる直前、ヘーゼルの叫びに呼び止められた。黙ってミキが振り返る。


「まだスペイさんは産んでないよ」


 濡れて崩れた髪を震わせ、息を荒げるヘーゼルは、真っ青な顔でエリーを見つめる。ずっと、血が笑いを堪えていた。すぅ、とミキが息を吸う。


【ククッ。そうだ言ってやれ、人狼の小娘。この女、エリーの身体が今、どうなってんのか。テメエはとっくに見抜いてんだろうが。さあ。さあさあ。さあさあさあさあさあ!】


 耳が潰れるほど催促を繰り返す。息苦しさが抜けないヘーゼルは中々それを口にできず、時間と霧ばかりが流れる。【そうかよ。テメエが言わねえならオレが言ってやる】痺れを切らした血が、満を持して告げた。


【孕んでるぞ、この女】


「むー! ……む!?」


 死なずに済むならと、血に同調しようとしたエリー自身が、瞠目した。エリーも、ミキも、ヘーゼルに目配せをする。血の高笑いが幅を利かせる廃墟で、ヘーゼルはぐったりと頷いた。


「姉ちゃんと、同じ匂い……ッス」


【おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる】


 降りしきる羽根はフクロウ、すなわち夜の猛禽。血が笑いを噛み殺し、受胎を告知する。

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