018 俺って本当に間が悪い

「貴様は待機だ」


 射手にそう指示された。あ、はあ。曖昧に答える。


「急に無理を頼んですまなかった。ここまででも充分だ。後は我々に任せて休んでくれ」


 大した労でもないが、射手に肩を叩かれ、労われるのは悪い気はしない。相手が年下だろうとね。


 谷風だけが話し相手の、寂しい崖道だった。追手の一味でただ一人、崖上で命綱を見張ることとなった男は、携帯食をかじりながら、一面の霧の海をぼんやり眺めて、仕事終わりを待つ。


 ドライベリーと炒ったマツの実、クルミ、獣脂と干し肉、雑穀とハチミツなどを練り合わせ、澄ましバターに浸した物だ。保存性と栄養補給の両立を目指した一品は、獣臭さと甘ったるさが足を引っ張って、食事を冒涜する味わいだ。でも、そうそう。こんなだった。懐かしいな。と、見張りは独り呟いた。


 待つ間は暇だ。どうしても取り留めもない考えが浮沈する。


 つい先刻、谷底からだろうか。オオカミの遠吠えが聞こえた。仲間は無事だろうな。遠吠えに応える声はない。オオカミ一頭に後れを取る連中ではないはずだ。


 ……驚いたな。考えることがなくなってしまった。


 岩に打ったペグを見やる。見るからにしっかり固定されて、綱が緩む心配もなさそうだ。参った、やることもない。


 見張りは懐から手紙を広げた。妻からの手紙だ。父に代筆させたのだろう。


『お仕事ご苦労様。万事上手く事が運んで、無事に帰って来てくれることを願っています。早く帰ってくれれば、新しい家族をお迎えできるし、帰りが遅くなっても、私たちの赤ちゃんと一緒に新米パパをお迎えできます。どっちに転んでも楽しみって、素敵なことじゃない? 間が悪いなんて思わないで、頑張ってね。お義父さんの付き添いのおかげで、そんなに心細くないから心配しないで。私も頑張るから。 追伸――それでも、早く帰ってくれたら、とても嬉しいです』


 歳だな。鼻がツンとする。冷たい空気を鼻で啜った。


「あー!」


 すぐ近くで大声が上がり、見張りは我に返った。慌てて手紙を懐に押しこみ、しわくちゃにしてしまった。ああ、俺って本当に間が悪い。


 恨みがましい目を声の方向に向ける。崖道の向こうから、ランプの光が来る。


「ちょっと、ダメだよ。おじさん、ここ通行も立ち入りも厳禁だよ」


 一目で護律官とわかる格好だ。大楯を携え、奇妙なマスクをしており、語調が浮ついている。見張りは「あ、どうも、こんばんは」としらばっくれた。


「こんばんは、じゃないよお、もう」護律官は腰に手を当て、肩で息をついた。「あーあー、もう勝手にこんなロープまで垂らして……何? 何か落っことしたのかい?」


「いやあ……へへ。すみません」


 見張りはおどけて首を縮めた。護律官は額――仮面に手を当て、空を仰いで唸った。


「……まあ、入っちゃったものは今更か。うん、仕方ないね」


 何食べてるのかな。護律官の女は見張りの隣へ無遠慮に楯を敷いて、その上に腰を落とした。距離の近さに面食らっていると、護律官は腰のポーチからスキットルを出し「どうだろう? 飲むかい?」と尋ねてきた。呼気から息が詰まるような酒気が漂っている。


「夜番の日は暇で死にそうなんだよ。一献、付き合いたまえよ」


 絡み酒か。見張りは貧乏くじを引いた気になって、ぞんざいに携帯食を差し出した。


「どうぞ。酒は結構。願掛けで断ってまして」


「おっひょ、ラッキー」


 護律官は携帯食をむしり取り、そのまま口にする。チェーンヴェールと面布を重ねた下、若い女の横顔が垣間見えた。最初は肩で小躍りしながら喫食していたが、味わうにつれて小首を傾げる回数が増えた。最後は酒で飲み下すようにして、食べ残しはさっさと見張りに突き返した。


 スキットルを逆さにしても、一滴も落ちない。護律官は肩を落とした。


 一息ついた護律官から、話しかけられる。


「聞こえたかい? オオカミの」


「え、ええ。まあ」肩透かしだ。てっきり不法侵入のことを詰められると思っていた。


「どこで遠吠えしているんだろうね」


「さ、さあ、どうだろう……この下から、聞こえた気がしましたけど」


「へえ……実はあれね、アタシが預かってる子なんだよね」仮面越しに得意げな顔が透けて見えそうだ。


「オオカミを飼ってらっしゃる?」


 護律官は首を横に振った。鎖飾りがシャラシャラと鈴鳴る。


「人様の子。最初は吠え癖の酷い子だったんだよ。力も強いし、躾けには手を焼いてね」


「はあ」地域ネコならぬ、地域オオカミ自慢と。「手がかかるだけ、可愛いと」


「あれ、わかるかい?」


「声に出てますよ」


「へっへっへ。でもね、ちょっと前から随分とお利口になってくれたんだよ。手がかからなくなっても、それはそれで愛着が湧くものさ」


「へえ、それはそれは」


「もうね、教えたことはすぐに吸収するよ。緊急時以外は遠吠えしない、とかね」


 声から酔いが飛んでいた。見張りは弾かれたように、霧の海に向けていた首を、隣に向けた。銀仮面の渦巻き模様の隙間から、瞳の輝きが漏れている。


 ごぼり、と見張りは水を吐いた。護律官は露術アンスロを使う素振りも見せていない。なのに、と思ったときには、もう遅かった。


「やったね? 君ら」


 呼吸ができない。見張りはパニックに陥る。気管に水が詰まったように、ゴボゴボと喉が鳴る。息は吐ける。だが満足に吸えない。見張りは自分の首を絞め、水を吐きながらその場でのたうつ。


「知っているかい。霧はね、水なんだよ」


 陸で溺れた見張りは、そのまま気を失った。見張りの周りに霧が結露し、水滴が忍び寄る。集まった水は見張りを包むように氷結し、氷の牢となって捕えるのだった。


 二回目の遠吠えが、断崖に響く。


   †


 ミキが楯に乗った。崖の所々から湧く水が、その下面に集っていく。やがて浮かぶほどの水量が集まると、ミキを乗せた楯は波に乗る要領で、急峻な崖を下って行った。


 その途中、綱を頼りに登攀する射手と鉢合わせた。刹那の思考が両者に走る。ミキは崖上と同様に不審者を即時拘束すべしと考える。


 他方、射手の思考は複雑だった。何故今頃になって護律官が出てくる。遠吠え……人狼のあれは良く響いた。合図。だが、谷底の状況は伝えようがない。吸血鬼まで出る事態とは夢にも思っていないはずだ。


 崖の中腹で止まる両者。ミキの考えは至ってシンプルだったが、いかんせん酒が回っていた。先に動いたのは射手だ。谷底を指で示し。


「吸血鬼だ護律官! 修律士もだ!」


 ミキは息を呑む。射手にもその情動が手に取るようにわかった。ミキは射手と谷底の間で逡巡短く、射手を指して「運が良いね」と言い残し、直ちに谷底へ降下した。


 稼いだ時間で、崖を急いで登り終えた射手は、氷漬けで凍える見張りを見つけるや駆け寄り、意識の有無と体調、氷の状態を確かめる。


「た、たた、助けて……」見張りは凍ったまつ毛で懇願する。血色は悪くない。


「失敗した。氷を砕く時間がない。生き残るだけなら、貴様には容易いことだろう」


 見張りは首と目の動く限りで、人影を探す。


「……他の二人は」


「殉職した」


 射手はその一言を最後に発つ。殉職。見張りが凍えたのは氷漬けのためだけではない。死んだ? あの二人が死ぬような何かが、すぐ近くで起こったってことじゃないか!


「おい、おぉい! ま、待て待て! もしもし!? 待ってくれ! 後生だ! 頼む、戻って来てくれぇ! おぉーい!」


 懇願虚しく、あっさりと置き去りにされた見張りは、身体の芯まで凍てつきながら思う。ああ、俺って本当に間が悪い。腹に詰めた携帯食のカロリーが命綱だった。

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