017 私は悪女になんかならない

 乱暴に振り下ろされた腕が空回りする。同じく、射手の一言を引き金にしてフクロウの鳥人が飛び降り、射手の両肩を掴んで飛翔、必殺の一撃を回避したのだ。


「助かった。感謝する」


「何てバカげたことを! 死ぬ気かい!?」


「いや? 明白かつさり気ない合図だっただろう?」


 あの直球な煽りのことを言っているのか。フクロウは愕然とした。現に咄嗟に身体が動いたものの。


「後で反省会だ愚か者!」


 吸血鬼が勢い余って壁を殴る。壁の縦横に亀裂を走らせるその威力に、エリーの腕がへし折れたが、射手の姿を追って振り返れば、時が逆戻るようにすっかり再生してしまった。


「逃げらんねえよバーカ!」


 すかさず、吸血鬼は仕込んだ血の糸を引く。糸は商館の二階窓の奥に続いており、糸に釣られて自らの足でナイフ使いの下半身が走り跳ぶ。その先は、翼をはためかせるフクロウと、無防備な射手の飛行経路だ。


 大股を開き、下半身が行く手を阻む。


「俺が蹴る! 回避に専念しろ!」


 射手の指示に、フクロウが応える。操られた下半身の落下線から急旋回で離脱しても間に合わない。手遅れの分を、蹴りで稼ぐ。フクロウに吊られた射手は、操られた下半身、その靴底を足蹴にする。


 何であれ、接触する瞬間を、吸血鬼は待っていた。


 操られた下半身、その切断面から血が噴射する。ズボンの下で肉体がうごめき、布地に点々と赤い斑点が浮かぶ。いかにも悪い前兆だった。


 まずい。間に合わないと悟っても、射手もフクロウも互いの役目を全うする。触れた靴底からナイフ使いの血が伝い、射手の脚を登っていく。


 その時、オオカミの遠吠えが霧空に上がった。


 頭上から、吸血鬼へ飛び降りる影は半人半狼。口の端に泡を噴き、唸りに敵意を剥き出しながら、ヘーゼルが吸血鬼に組みついた。


「うおっ? んだよ良いとこで! どけよ! オレぁエリーだぞ駄犬!」


 エリー。ヘーゼルのそれは獣の咆哮だったが、微かにその音を含んでいる。


 ヘーゼルの瞳は濁り、何も映していない。麻酔によるせん妄で暴れているだけだった。エリーを呼んでいる訳ではなく、ただ吸血鬼が口にした名をオウム返ししたにすぎない。


 だが、ヘーゼルはその一回の脊髄反射に固執する。エリー、エリー。バカなイヌが見境なく吠えるように、何度も、何度も、しつこく繰り返す。


 その咆哮が、薄皮一枚を隔てた心の向こうに、満ちた邪悪な血に波紋となって伝わり、閉じこもったエリーの耳に届いた。


】……ヘーゼル?【


 はだけたヘーゼルの祭服が、吸血鬼にまとわりつく。銀糸に触れると、吸血鬼の皮膚がジュッと焼けた。


「おあぢぢぢぢぢ!?」


】熱いっ……!【


 心の奥にも伝わる。そして、銀の熱さが、閉ざした心を蘇らせた。身体を壊してもなお、硬い壁でも止まらなかった一撃を。望まない形で不条理を退けた力を。間違いを正当化した弱さを。


 自分の弱さの矛先を、ヘーゼルに向けて良いの?


 無知で弱い私のままで良いの?


 吸血鬼がよろめく。しかし、それでも膝すら着く様子を見せない。だが、火傷で気が逸れたのか、射手たちを襲う血の浸食が止まる。


「このダボが! あっぢ! とっとと降りやがれ! さもなきゃ死ね!」


 吸血鬼の手刀がヘーゼルへ襲いかかる。


】ダメ!【


 血の底から浮上し、エリーの声が強く、吸血鬼の頭を揺さぶった。手刀が解けて、代わりに威力の死んだ張り手がヘーゼルの首を打つ。


 意識の底から、エリーが浮上した。


】ヘーゼルに手を出すな! この人殺し!【


「うるせえ! テメエが望んだことだろうが! 悪女らしく一暴れしてやろうっつったのはテメエだ!」


 エリーは一瞬、喉を詰まらせた。確かに捨て鉢で悪女を気取りはした。だが、ヘーゼルまで手にかけては、事情が変わる。


】違う! こんなこと、私、したくない!【


 今ならわかる。悪女になろうとしたのは自棄で、気の迷いだったと。たとえエリーを傷つける全てから守ってくれる力が得られたとしても、こんなエリーに優しく連れ添ってくれたヘーゼルに危害を加えるくらいなら。


】私は悪女になんかならない!【


 吸血鬼が牙を剥いて反駁する。


「テメエがどう思おうが知らねえよ! 殺し屋連中も、誰も、テメエの弁明になんざ耳を貸さねえ! 人狼の小娘だって、テメエが悪党だって知ったらテメエを切り捨てるに決まってる! テメエが信じられんのは、この世でオレだけなんだよ! 現実見やがれ!」


】うるさいうるさいうるさい! ヘーゼルはそんな人じゃない! とにかくもう誰も殺さないで!【


「叫ぶしか能のねえ腰抜けが……すっこんでな! 今はオレの番だ! 邪魔すんじゃねえ!」


 エリーの強い拒絶が吸血鬼の手を鈍らせ、血の糸がぷつんと切れた。吸血鬼は咄嗟に繋ぎ直そうとするが、糸を通して操作していた血は射手の姿をほとんど隠す寸前だったが、途端に命を失ったように崩れ、下半身諸共落ちていく。


 その隙にフクロウは全力で羽ばたき、その姿は霧の上へ霞んでいった。水面に血と死肉が落ち、赤色が揺蕩った。


「ああー、勿体ねえ!」


 血を台無しにされた怒りで、吸血鬼がヘーゼルを払い落とし、首を足で踏みにじり、絞める。足の下で、ヘーゼルがしつこく暴れている。頭の中でエリーが騒ぐ。片腕が吸血鬼の意に反して拳を握り、自らの脇腹をゴツゴツ殴りだす。


 うんざりだ。


「るせぇつってんだろ!」


 吸血鬼は自らの、エリーの頭に掌底の連打を見舞った。側頭が砕ける。眼球が飛び出す。血は動じず、エリーの脳組織だけがゼラチンのように揺すぶられた。


】うっ!? あ、れ? ううん……?【


 エリーの意識が途切れ、静かになった廃墟に、吸血鬼の息遣いだけが残る。


「殺し屋が逃げた途端にデケえ面すんじゃねえよ、クソビビリ女が」飛び出た眼球をはめ直す。「どいつもこいつも、これからってときに水を差しやがって」


 頭の中の声を振り払って、吸血鬼はフクロウの消えた先を見据えた。邪魔は入ったが、お楽しみを先送りするのも嫌いではない。面白くなってきたとばかりに笑顔が裂けた。


 血の糸はまだ視線の先に続いて、吸血鬼の指を引いている。


 切れた後、咄嗟に繋ぎ直そうとしたのは、無駄ではなかった。


   †


 霧の向こうに崖肌が見えた。射手とナイフ使いが降下のために使った綱も見つけた。この上で待つ仲間と合流し、速やかに撤退する。フクロウは谷風を翼で捉え、上昇する。


 だが、上背を摘まんで引かれたような気がした。首を反転させると、フクロウの背中にごく小さな赤いノミがいた。ノミから赤い糸が伸びて、緩んでは張りつめる。まるで釣り糸だ。ノミが羽毛を掻き分けて潜っていった。


 今、この空を飛んでいるのは、フクロウだけだった。ふ、と目を細める。


「遺言はカーディナルに預けているからね」


 返事を待たずに、フクロウは勢いをつけて飛び、射手を綱のところへ投げた。辛うじて綱を掴み、滑落を制動した射手が振り仰ぐと、フクロウの全身を血の棘が無数に貫いて、短い断末魔を谷に響かせた。


 フクロウは、見えざる手にさらわれるかのように奈落の底へ消えて行った。フクロウの姿が見えなくなっても、しばらく射手は霧の奥に目を凝らしていたが、やがて直前の摩擦で破れた手袋に血を握り、黙々と崖を登り始めた。


   †


 霧の下、エリーの身体を奪った吸血鬼が、血の糸を巻いている。手首の傷に、糸の血を飲ませるようにして、釣った大物を引きずり降ろす。


 厚い霧の帳を破り、白い霧の尾を引いて、巨大な鳥影が直上に落ちてくる。


 充分に引きつけた瞬間を舌なめずりしながら見計らい、吸血鬼は腰を捻って溜めた拳をフクロウの胴へ目がけて突き上げる。


 直撃。落石の如き轟音で、フクロウの胴体を衝撃波が貫いた。打撃の衝撃が出口を求めてフクロウの身体中を暴走し、内側から破裂して、空に血と羽根を噴く。


 過剰な膂力が反動となり、エリーの肉体を襲う。腕から肩にかけてフクロウの重量に押し負けて、組織が悲鳴を上げる。更に足腰を伝わった余波で水面が揺らぎ、暴れていたヘーゼルも硬直の後、力が抜けていった。


 吸血鬼はフクロウの血を抜き、肌から食らって、吸い殻をぞんざいに投げ捨てる。遅れて、血と檜皮ひわだ色の羽根の雨が降り、恍惚とした吐息と共に再生を終えた両手を広げて、全身に浴びた。


 血の雨が止み、羽根の雨が残る。手に目を落とす。握り拳だった形がひしゃげて、ヒガンバナのように咲いている。


「こんぐらいのことでぶっ壊れやがって……脆すぎんだろ。鍛えとけよガリガリ女が」


 人間であれば重傷だが、吸血鬼が一振りすれば、元の形に戻る。使い方を考えねえと。治すだけで血を使いすぎる。


「……一頭、逃したな」


 再生した手の具合を確かめる。拳を手の平に打ちつけつつ、面倒な気持ちと、遊び時間が伸びた微かな喜びの芽生えを覚える。すぐに追いついてやるからな。吸血鬼が崖方面へ一歩踏み出し、異変を察知して止まった。


 水がざわめいている。


 フクロウを討った余波はとっくに消えている。水のざわめきはさざ波となり、渦となって柱を成し、吸血鬼の行く手に立ち塞がった。


 水柱の頂上に、人影が立っている。楯を足場にし、水柱を徐々に低くするにつれて、露わになったその姿は、白地に銀の刺繍の祭服。雷雲を模した銀仮面に、雨粒と落雷のチェーンヴェールを垂らした、覆面の女だった。


「バカ弟子め~……」


 少し気取った、遊びのある口調で、渦巻く水の中心に、露出した地面に足を降ろす者。その名は。


「アタシの酒を盗るなんて、良い度胸だね~?」


 護律官ミキ・ソーマが、吸血鬼など居ないかのように、その足元に沈むヘーゼルを見下ろしていた。

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