016 舌鋒
逃げる。射手の結論は明白だった。だが、逃走が成功するイメージが定まらない。目の前の、女の形の中で蠢く得体の知れない暴力が、想像を揺るがすほどの存在感を放っていた。
ナイフ使いはいつの間に殺されたのか。死体の状態は吸血鬼に襲われたことを示している。標的が吸血鬼化しているのであれば、同時に肉体も回復する。外傷はおろか、歩様に怪我の影響すら見られなかったことに説明がつく。加えて、心なしか肉付きも善くなったようだ。ナイフ使いの血を補給したからか。
再発見時には既に吸血鬼となっていた、と見るのが妥当だろう。
しかし、吸血鬼は水との接触を嫌うもののはずだ。標的は、平気で足を水に浸けている。それに、何故今の今までその力を隠していた。
射手が蓄積してきた知識では測れない。どう動くのが最善か。暫定的対処――インタラクティブに情報を獲得する。
射手が頭を回転させている前で、標的はぐるりと首を巡らせた。
「ヘーゼルはどちらに?」
「……人狼のことなら、麻酔で眠った。今は屋根上で寝かせている」
「そう」
標的が盛大に溜め息をつく。
「あー、だっる。お嬢様言葉っつーの? 肩が凝っていけねえや」
雰囲気が一変し、標的は腕を組んで壁にもたれる。尊大に首を傾げ、見下す視線を射手たちに向ける。
「おう、テメエらも、楽にしろよ」
ちょちょいと手招くように、標的が促した。意図が読めない。射手は変わらず警戒し、逃走プランに使える要素を観察している。その切羽詰まった内心を見透かすように、赤い眼球で標的が射手とフクロウを値踏みする。
「必死こいて逃げ道探してる、って面してんぜ、テメエら。クールぶってもよお、負け犬臭くて仕方ねえ」
標的がほくそ笑んだ。
指を五本、立てて見せてくる。
「大負けに負けて、五十人で手を打ってやる」
「……何?」
「テメエら、いわゆる殺し屋、だろ?」いつの間にか仲間のナイフが奪われていた。標的はその刃を持ち、柄を胸一杯に嗅ぐ。「それも相当、手慣れてやがる」ナイフを捨てる。トポンと音を残して沈む。「てことはよお、人間狩りなんざお手の物ってえ訳だ。つー訳で、二日後までに成人で五十人分、血をオレに貢げ。オレの命令に従うなら、今回だけは見逃してやる」
観察結果一。射手は心に書き留める。吸血鬼の影響は確定。しかし、自ら捕食すれば済むものを、わざわざこちらに強要する意図は何か。推測するに、ここが護律協会の監視下であることが原因だ。吸血鬼の立場からすれば、護律官に勘づかれるまでに、早急に力を蓄える必要に迫られていることだろう。一方で、単独では必要な血液量の獲得が困難だと判断している?
手負い、あるいは体力の減衰か。余裕そうに見えて案外、焦っているのか。
標的が今更になって尻尾を出した理屈もわかった。修律士である人狼の娘の体力を削り、かつ、射手たちが護律協会の構成員、ないし、それに類する対吸血鬼を想定した戦闘集団のどちらでもないと見定めるまで、息を潜める腹積もりだったに違いない。
焦っていても冷静か。厄介な。
射手が、標的のにやけ面を睨む。観察結果二。態度といい、発想といい、事前に聞かされていた標的の人物像からかけ離れすぎている。姿形に惑わされず、別人と決めてかかるべきだ。
「プロフェッショナリズムを評価してくれた礼を言おう。が、生憎と名乗りもしない依頼主とは手を組めない。貴様、標的の女ではないな。何者だ」
「エリーだよ。オレ……あ、いや、私、って言ってやろうか? 私、エリーです。エリーです私。エリーって私です。どこからどう見てもエリーでしょう」
くるりと、その場で回って見せてくる。服はもはや身体に引っかかっているだけのボロ切れで、木の枝に懸けた衣のように、霧を受けて翻った。はだけた襟を艶めかしくずらし、青白い地肌を覗かせる。ボディラインに両手を沿わせ、艶めかしい腰遣いは煽情的で、片目をつむってキスを飛ばす。
「もっと近くで確かめても好いのよ?」
「真面目に尋ねている」
「だとしても、オレがマジで答える義理はねえ」
観察結果三。挑発的かつ無礼。対話は合理性とは別の軸がある。その軸を探る。
「貴様が持ちかけた取引だ」
「思い上がんじゃねえぞ。手を組むとか取引だとかよお。オレとテメエらが対等だとでも思ってんのか」標的がナイフ使いの亡骸を親指で示す。「ああなりたくなきゃ、グダグダ言ってねえで従え。食用種どもがよ」
観察結果四。プライドの高さが窺える。ナイフ使いを倒した以上、格上だ。だが、機嫌を損ねても直ちに暴力に訴えようとはしてこない。腕力に物を言わせる前に、知性やセンスを誇示したがる。対話の軸は、精神的な支配欲か。
「……悪かった。非礼を詫びよう。女の後ろでなら饒舌になる慎重で繊細な依頼者は、前例がない訳ではない」
あたかも標的が女々しい臆病者であるかのように、要所を強調して言い放つ。
「おい!」頭上で二人のやり取りを見守っていたフクロウが、声を潜めて射手を咎めた。やめないか! あまり突っつくんじゃあないよ!
対して射手は、あくまで表情を崩さず、脅威と対峙する。
心配いらない。今のは反論の余地がある侮辱だ。超常の力をもって場を支配できる存在でありながら知恵比べを好む者が、ゲームを台無しにする段階ではない。固唾を呑んで返答を待つ。
不愉快に下がった口角が、再び上がる。
「自分で言うのも何だけどよ、オレは何て寛容な男なんだろうな……ああ、今は女か。それはまあ良い。どんだけオレが寛容かっつーとだな、女にちょっかいかけたド変態をお仲間に代わってケジメつけてやった上、ド変態のお仲間どもにはみかじめ料を負けてやったし、テメエら人畜どもとオレが対等だとかいう思い違いを正してもやったくれえだ。なのによお、こんだけ言ってもテメエらは、これっぽっちも、立場を弁えてくれねえのな」
射手の全身で毛が逆立つ。殺気。観察結果五。そもそも、狩人と獲物の間で成立するのは、ゲームとは似て非なる駆け引きだ。両者の力が拮抗していればゲームに近づくが、力の差が開くにつれてシンプルな娯楽と化す。
母ネコが半死半生のネズミを、狩りの教材として子ネコに与えるように。
人が銃を手にしたとき、狩猟が営みから競技の性格を得たように。
「つまんねーなあ。話になんねーなあ。どーしてくれんだよ。オレ、もう飽きてきちまったよ」
血眼が、冷血に染まっていた。そうだ、と思いついた新しい遊びを披露するように。
「人殺しを殺したって、神様だって文句言わねえよなあ」
射手は自分に呆れて、渇いた鼻で嗤った。吸血鬼にとって、人間とは獲物であり、知性はおまけだ。こいつは、人間の知性に、人型に型抜きされたジンジャークッキー程度の関心しか寄せていない。
最初はジンジャーブレッドマンに喜んでいた子どもだって、娯楽のピークを過ぎれば、食う。
早まった。ご機嫌取り以外の役割を期待されていなかった。
「思ったよりも幼稚だな。吸血鬼め」
その一言が、引き金となった。
「やっぱ、ここで死ね」
射手が捨て台詞を口にした瞬間、吸血鬼は額のつく距離に迫っていた。
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