015 せめて、悪女らしく
†】
明晰夢を見ている心地だった。
応接間で追い詰められ、額に刃が振り下ろされる瞬間、エリーは不思議な感覚に引きずりこまれた。
意識の一層奥に引いたとしか言いようがない、離人感。目前に迫る死に心を壊したか、まるで殺戮が他人事に観えるのだ。走馬燈、という言葉が思い浮かぶ。安らかな気持ちだ。殺されるのは絶対に嫌なエリーだが、激痛と恐慌から解き放たれて逝けるなら、それは神様のお慈悲にも思えた。
】もう、何もかもがどうでも良い【
何でも良いから、早くこの悪夢を終わりにして欲しかった。
「何でも良いから、と思ったな?」
喩えるなら、意識の表面を覆う膜。そう思っていたものが声を発したので、エリーは目を覚ます。いや、離人感はそのままなので、まだ明晰夢の心地から抜けていない。
】誰?【
聞き覚えのある声だった。廃聖堂で目覚めてからこれまでに、何度も聞こえた男の声だ。
「じゃ、お許しが出たっつーことで。遠慮なく血祭りに上げてやる」
気づけば、エリーの細腕がナイフ使いの屈強な手首を取り、へし折っていた。
一方的な凌辱の興奮で熱を上げていたナイフ使いは、何が起きたのか理解できず「ああ?」と間の抜けた声を漏らした。だらんと脱力し、あらぬ方向へ垂れた手からナイフがこぼれ、床に刺さった。
ナイフ使いの頭に痛みが追いつき、悲鳴に似た息を吸った。その半端に開いた口へ、面布の上からエリーの手刀がねじ込まれた。
】何【
エリーはうろたえる。
】私、こんな。こんなこと、私じゃない。私、こんなこと、できない【
「当然だ。オレが代わってやってんだ」
悲鳴を封じられたナイフ使いが、口を塞ぐエリーの腕を力尽くで抜こうとする。だが、枯れ木のようなみすぼらしい腕のどこにそんな力を隠していたのか、微動だにしない。どころか、エリーは布越しに指でナイフ使いの口腔をミチミチともてあそび、舌や内頬、歯らしき感触を、花占いの気分で千切り続けていた。
目を覆いたくなる惨状なのに、エリーの意思で顔を背けることも許されない。
「好き、嫌い、好き、嫌い、好き……」
自分の心に、他人の邪念が巣食っている。自分の口が、他人の言葉を呟いている。
】何よ、これ。何なのよ、これ【
怖気て目を濡らすナイフ使いの萎えた表情が、恐ろしかったはずの刺客の顔が、今や痛ましくも見えてしまう。
「嫌い、嫌い、嫌い、嫌い、大嫌い……ぎゃはは!」
ナイフに刺された傷が塞がっていく。自由を取り戻したエリーの腕が、ナイフ使いのみぞおちを貫いた。口に詰めた手の隙間を満たすほどの血を伝って、こもった絶叫が腕を痺れさせた。エリーは顔に浴びた毒霧じみた吐血を舐めた。汚い、生臭い。意識が拒んでも、身体は意に反して、ナイフ使いの口から噴射する血を、エリーの口に含ませた。
やがて、絶叫する気力も使い果たしたナイフ使いの口から、手を抜いた。千切った物がボトボトと落ち、床に散乱する。喘鳴と怯えが吐血に濁って聞き苦しい。エリーは抜いた手を、みぞおちの穴に滑りこませた。
蝶番の錆びた両開きの扉を、壊してでも開くような抵抗を、腕に感じる。ナイフ使いは直前の歓喜が可愛く見えるほど苦しみ叫ぶ。エリーが血反吐を顔に受けた。
】やめて! 嫌あ! 止まってえ! わ、私、そんなつもりじゃ……!【
エリーの両腕は力任せに左右に広がり、ナイフ使いの上下を分断する。溺れるほどの血を全身で浴びた。血の海に下半身はくずれ、落ちた上半身は痙攣を弱めていく。
血で洗った全身に、嫌悪がわだかまる。特に両腕には鈍く、生々しい肉と脂の感触が残っていた。
】こ、殺した……私が、こんな、酷い……【
心が絶叫した。身体は、心を無視した。顔に受けた血反吐を舐める。心の一層下で頭を抱えてうずくまり、破裂しそうな理性を抑えるエリーを、昏い血の声だけがその肩に手を添えて、囁き、慰める。
「可哀そうなエリー。ずっと怖かったんだな」
心に閉じこもってすすり泣くエリーだが、耳を塞いでも、声は心に絡みつく。
】何よ、何なのよ、あんた……やめて……私に、こんなことさせないで……! 私に、何をしたのよ……!【
声の主は、エリーの喉を借りて、薄ら嗤う。
「つれねえなあ。オレはテメエのお願いを叶えてやったってのに」
】違う! 私、こんなの頼んでない!【
「そりゃねえぜ。オレのおかげで助かったってのによ」
】うるさい! うるさい、うるさい!【
「取りつく島もねえや」身体が肩をすくめる。「じゃあ、アレだ。アレやれ。好きなとこ三つ見つけるやつ」
それは、僅かに残ったエリーの記憶。あの人が教えてくれた秘訣。エリーに一歩前に踏み出させてくれた、おまじない。
何もかも失くした自分に残された宝物を、人殺しが口にした。歯を食い縛り、口がわななく。悔しさに涙が流れた。激しい悔しさは肉体に伝わり、現実に血の涙を流させた。
しかし、肉体はこともなげに涙を拭う。
「……どうした? 言わねえなら代わりに言ってやるよ。まずは……ああ! こりゃ外せねえだろ! オレは死んだテメエを生き返らせてやった」
一つ目が、心臓を掴む。死んだ? 私が? それを、生き返らせた、って。疑問に耳を貸さず、肉体は滔々と指折り数える。
「それから、これからはオレがテメエを守ってやるよ。テメエを傷つける奴も、馬鹿にする奴も、ガン飛ばす奴も、不機嫌な日に見かけた奴も、とにかくムカつく奴も、全部、ぜーんぶ、オレが食い殺してやる」
これが二つ目だなんて、冗談じゃない。でも、ナイフ使いの恐怖が尾を引いて、心から拒めなかった。
「もう怖い思いをしねえで済むぜ」
三つ目。二つ目を言い換えただけじゃない!
「厳しいねえ。人狼の小娘んときみたく、激甘判定くんねえか?」
けれども、人間を圧倒する暴力が、エリーの味方に着いてくれる。その昏く甘美な優越感は、怒りにわななく彼女の口を、ほんの少しだけ、邪な喜悦に歪ませた。
――どんなに嫌いなものでも、好きになる方法があります。それの好きなところを三つ、挙げてご覧なさい。
だからって、こんな人殺しを、好きになって良いはずがない。
思い出すな、思い出すんじゃない、思い出さないで。あの人の言葉を、こんなことで貶めるんじゃない。エリーがどれだけ己に言い聞かせても、この邪悪な意識が味方になるなら……誘惑から逃れられない。
】わ、私……私ぃ……【
「オレがいれば、テメエは無敵だ」
四つ目。いや、まだ二つ目。また言い換えて誤魔化した。誤魔化されるな。誤魔化されないわよ。私は、あんたなんか嫌い。大嫌い。
「それに、テメエの本性が何だって、オレは構いやしねえ。世界中から悪女と
誘惑が、エリーの閉ざした心の隙間を探り当て、侵した。ナイフでエリーを切り刻み、罵声を浴びせた男の言葉だ。
悪党、アバズレ、私は、記憶を失う前の私は、悪女だったらしい。
どんな悪事を犯したのかは、ちっともわからなかった。けれども、忘れた、では済まされない罪を、私は背負っているらしい。
だったら、今、こうして、良い子にしたって、無駄なんじゃないの。生まれ変わったところで、私の罪が雪がれるはずがない。捕まったら殺される。身に覚えのない罪に、罰が下される。
だったらどうせ、成す術なく、無力を嘆いて殺されるくらいなら、あんたのことを、……利用してやる。
使えるなら、使い尽くして、何もかも終わったら、使い捨ててやる。何もかも終わった後、裁いてやる。
せめて、悪女らしく。生き延びるために、良い子を辞めてやる。
だって、どうせみんな、私にそう望んでいるんでしょう。ナイフまで使って、切り刻んで。殺したいほど憎らしく、恨めしい、悪魔のような女であることを。
】ふ、ふふ……ふふふ……【
罪の意識と血の誘惑がせめぎ合い、エリーの口元は泣き笑いの狭間で痙攣する。温かな血が心の空間を満たし、エリーの意識は錆臭い粘りの底に、ゆっくりと沈んでいく。
「……乗っ取るまではいかねえか」
肉体の起き上がりざまに、ナイフ使いの血が肌を這い、浸透していく。応接間を赤く染めていた血は一滴も残らず、ただ、物言わぬ死体が肉の色を残している。
「さあ、て。せっかくだしな。退屈した分、取り戻さねえとなあ」
伸びをしながら、エリーの口はエリーの声で、エリーでない言葉を吐いた。乱れ騒ぐ心の悲鳴に乗せて、旋律も拍子も合わない、寂しげな子守唄を口ずさむ。
指揮を執る風の指先から、血の糸が紡がれた。糸がナイフ使いの上半身に潜る。すると、死んだ筈のナイフ使いが身震いし、自ら喉に手を当て「あ、あ、あめんぼあかいなあいうえお」と発生した。口の中がずたずたなせいで、間抜けな声だった。
上半身から赤い糸が幾本も伸び、天井に着く。糸に吊るされた上半身は操り人形となって、エリーの肉体の代わりに、応接間の窓の閂錠に手をかける。
【†
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