014 サプラーイズ
商館の一室から届いた断末魔に、射手の男はうんざりと溜め息をついた。ナイフ使いの悪い癖だ。
気絶した人狼はフクロウに運ばせ、手近な建物の屋上に寝かせておくよう指示していた。
「おやおや、お楽しみのようだね」と、頭上からフクロウの呆れた声が降る。
「悪趣味な奴を連れて来たのは間違いだった」とは言え、その悪趣味の――標的に罪を白状させたいがために、奴は血道を上げて標的を追い詰める術を磨いてきた。その熱の上げようは理解に苦しむが、それだけに腕前は信用に足るものだ。
現にこうして、廃墟で合流せずに外で待っていられるのも、ナイフ使いの下劣な感性を差し引いても、その実力が評価に値するためだと思い直す。
「しかし、良かったのかい?」頭上からフクロウが尋ねてきた。「予定だと、標的を処分するのは禁域離脱後だったろう。護律協会の縄張りで流血沙汰は、さすがに僕らでもまずいんじゃないの」
「あれを見て同じことが言えるか」
射手が頭部を失った死体を顎でしゃくる。血痕を辿って崖を降りてみれば、案の定の結末だ。標的の同行者、その最期は呆気ないものだった。血の禁忌は今や、侵されている。
「一回禁忌を侵してしまえば、二回目も変わらん。律儀に禁域離脱まで標的の面倒を見るのは手間だろう。ここで始末する口実ができたと解釈する方が合理的だ」
「切り替えの早いことで。いやはや、潔い」
フクロウが感心するのを聞きつつ、射手は腕を組み、壁にもたれて向かいの商館を見上げた。
丁度、窓が開かれる。岩迷彩を血塗れにしたナイフ使いが、気だるげに手を挙げた。
「お疲れーい。今終わったぜい。とっとと撤収して酒と女を浴びに繰り出そうぜい」
脱力しそうな軽さだ。相当張り切って仕事に臨んだか、ナイフ使いの声はかすれて、加えて喘ぎが混じっているせいでぼやけて聞きとりづらい。自然と追手たちの間の緊張が緩む。やれやれ。射手が首級を挙げたナイフ使いに声を張る。
「その前に湯でも水でも浴びろ。その血を落とせ。酒が不味くなるし、
「違えねえ」ナイフ使いが嫌らしく笑う。「死体を運ぶにゃ面倒だ。こっから落とすぞ」
「いや、首だけで充分だ。切り落とせ」
「首ぃ……? はーん、首かあ」
「……まさか顔はやってないだろうな?」
「すまーん」
窓の奥に引っこんだ声に射手が苛立つ。やはり失敗だった。殺しで興奮する異常者はこれだから扱いに困る。呑気に間延びした「行くぞー」の掛け声が白々しい。
「良いからさっさと……」
投げ捨てられた死体が、水柱を上げて着水した。射手が言葉を失う。死体を確かめようと前に出たがる脚を制して静観する。屋根上のフクロウも気づいたようだ。
ナイフ使いの、上半身だった。
直前まで会話を交わしていたはずの仲間が、変わり果てた姿で水面を漂っている。
「妙だよ、君」フクロウが吠える。「血が滲んでいない」
射手も気づいていた。あれだけ返り血を浴びていたにもかかわらず、死体は澄んだままの水に浮いている。射手の目にした返り血が錯覚だったとしても、ナイフ使いが直前まで生きていたならば、水が血に染まらないのは不自然だ。これでは、まるで……。
「あら、お騒がせしてごめんなさいね。お向かいさん」
場違いに媚びた女声が、開け放たれた商館の窓から落とされた。
「模様替えで部屋を赤く塗ろうとしたんですけれど、塗料が悪くて、ついカッとしてしまいましたの」
ふざけた口調だ。エリーと呼ばれる標的の女が、白目を血のように赤く染めて、窓から身を乗り出し、自分の冗談で楽しそうに笑っていた。
「あら嫌だ。首だけご入用と伺ってましたのに、私ったらそそっかしくて嫌あねえ。こちらの不手際でお手間を取らせてしまうのは誠に恐れ入りますけれども、そちらでご勝手に切り分けちゃってくださいまし」
その口元は、肉に接吻した後のようにべったりと血に濡れて、鋭利な笑みが裂けている。標的の女は今更になって口の汚れに気づいたのか、乱暴に血を拭い、不調法に舐め、残った血を紅に見立てて、血色の悪い唇に塗った。
「それとも、私が切りに伺ってよろしくて?」
標的は窓を腕一本で跳び越える。落ちる、かと思いきや、標的は綿毛の軽やかさで優雅に舞い降りて、水面に触れた爪先は束の間、波紋の上にたたずんだ。
奇しくも、標的の同行者、その伏して祈る死体の直上。束の間に晴れた霧と雲の隙間より、一条の月光が差す下で、天より慈悲の御使いが降りたと錯覚する画となった。
標的の挙げた腕から窓の下枠にかけて、赤く光る線が見えた。糸だろうか。
赤い糸で吊り下がったまま、標的は物憂げに爪先で水面をもてあそび、やがて、得心の微笑を浮かべて、くるぶしまで水中に沈む。着地した標的はカーテシーを誇張して、射手とフクロウにお辞儀を見せた。
歪んだ口紅の、鮮烈な笑み。
「サプラーイズ」
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