013 悪女を裁く
エリーが唖然と見つめる間もなく、腕は閂錠を探り当てて解錠し、窓がおもむろに開かれる。
「邪魔するぜ」
窓の外、男が岩迷彩の覆面の下で、こちらに微笑みを向けていた。途端にエリーの胸が凍る。
「サプラーイズ! 模様替えに夢中で足音が聞こえなかったか? こっちは余裕で隣の部屋から窓を渡ってましたとさ……こんばんは、お隣の悪女さん!」
逃げ、逃げ……エリーの目が泳ぐ。窓から男が入って来る。「ああー、閉まっちゃう。閉まっちゃうぞお」と閂錠をかける様子を見せびらかす。扉は自分で封鎖してしまった。
「はい、おしまい」
あれ、おかしいな。逃げ道が、ある、はずなんだけど。現実にエリーの空想が混ざり始めた。
心が現実逃避に傾く間に、男はその凶刃が届くところまで、エリーに詰め寄っていた。
「さ、これで邪魔も入らねえし、ゆっくりお話しようぜ」
エリー自身の心音の激しさの向こうから、男の声がする。冷たい刃にエリーの乱れた呼吸がかかり、曇っては乾く。
「で、何をやったんだ?」
ナイフの男が問う。質問が意味不明な以上に、恐怖でどうにかなりそうで、口が動かない。ナイフから目を離せない。エリーの視線の先に気づいたのか、男は呆れたように溜め息をついて、鞘に刀身を納めた。
ただし、もう片手で外套の内に仕込んだもう一本に手をかけて。
「さ、ほら。ゲロってみなって。話によっちゃあ、俺の気が変わるかもよ」
口振りに道端で見かけた子ネコを誘う作為を感じるが、エリーは逸る呼吸を抑えて、固唾を呑んで整え、声にする。
「な、なん、何のこと……です、か」
乾いた呆れ笑いで、男が俯きがちに首を振る。またまた、ご冗談を。そんな心の声が聞こえる素振りだ。
「何のことって、てめえが働いた悪事のことに決まってんだろ」
あくじ。耳にした言葉が素通りして、口に出る。男がねっとりと頷いた。
「で実際、どういう悪だくみがあったんだ? 勿体ぶってねえで、こっそり俺に教えてみろよ」
「あっ、……あなっ、あなたがっ、何っ、言って……わ、からない……ですっ」
エリーの足が、ブーツに踏みにじられた。
「とぼけんじゃねえぞこのクソアマが!」
男が豹変し、鈍器にも似て厚い靴底が、エリーの華奢なくるぶしをきしませる。
裏返った悲鳴。
痛い、と繰り返し、エリーは泣きわめく。男の足をどかそうと懸命に組みつくが、逆に乱暴に髪を掴まれ、強引に顔を上げられた挙句、男の血走った眼を間近に覗かせられた。
「この期に及んでしらばっくれていられると思うなよ。俺たちが動いたってこたぁ、てめえが救いようのねえ悪党だって挙がってんだよ!」踏みにじられる。激痛に取り乱す。「だってえのに、今日の今日までのらりくらりと逃げ腐りやがって……おかげでこんなクソ田舎まで出張んなきゃなんねえ!」踏みにじられる。激痛が限度を超える。「挙句、谷底に落ちても平気で男をやり捨てて、てめえ一人でピンピンしてるときた!」踏みにじられる。激痛に声を失う。「てめえの往生際が悪いおかげでよお、こちとらクタクタだってのに、こんなクソ崖を遥々降りてきてんだぞ!」踏みにじられる。呻く。「だったら、てめえが何をしでかしたかくれえ聞かねえと、仕事の割に合わねえよなあ!?」
踏みにじられる。踏みにじられる。踏みにじられる……。終わらない。教えなきゃ。この人に、私が何を……私が何をしたって……。わからない。わからない。
「嫌っ! やめて! ごめんなさい! ごめんなさい!」
「だーかーらー、何に謝ってんのか言えっつってんだろ!」
踏みにじられる。エリーの謝罪を覆って、男が怒鳴る。何に謝ってるのかって、あなたによ。他は知らない。私、知らない。痛い。教えて。誰か教えて。誰か、助けて。
「助けて、ヘーゼル! ヘーゼル! 助けてぇ!」
喉が焼けるほど絶叫しても、ヘーゼルは応えてくれない。
「ヘーゼルぅ……? ああ、てめえが新しく
声を荒げて、エリーの頭に血が昇っていた。髪を掴まれたせいか、頭の傷が開いて、額に血の筋が垂れる。駄々をこねるように、幼稚に、無軌道に、金切り声の限りを尽くして抗う。
「悪女!? 悪女って何よ、さっきから! 知らない! 何も覚えてない! ここに落ちる前のこと、何も思い出せないのに! 答えられる訳ない!」
男の目に怒りが帯びる。男は隠し持つナイフを抜きざまに振りかざし、エリーの鎖骨の窪みに深く、ねじり刺した。
出血と激痛で、喉を潰すばかりの絶叫が廃墟に木魂する。
刺された側の肩が上がらず、エリーは健気に片腕でぽこぽこと男の腕を叩くも、相手は動じない。
「ここまで丁寧に、言い逃れできねえって教えてやってんのに、まだ誤魔化そうってえのか?」男の声は冷たくなっていた。「なあ、今の流れでゲロんねえとか、どういう神経してんだ? もう助かんねえから遺言の一つでも聞いてやろうって気遣いが、わかんねえのか? 悪女だから人様の優しさが理解できねえのか?」
刺さったナイフが更に捩じられる。体内に張り巡らされた神経が、血管が、壊されながら巻き取られる。本能に訴える苦痛が、血反吐の叫びを吐かせた。肺か気管に穴が開く。逆流した血がエリー自身の喉を塞ぐ。エリーはうがいをするように喘ぎ、絶え間なくむせた。
「だとすりゃやっぱてめえはクズだ。俺の仕事の見返りに土産話の一つも寄越さねえ、だんまりクズが」
そっちがその気なら……。ナイフが抜かれ、おびただしい血を噴くエリーの頭上に、血塗れの刃が再び振りかざされる。降り下ろされたそれを、自由な片腕一本でエリーは必死に防いだ。
かざし、降ろし、繰り返される刃の連撃を防ぐたびに、細腕には傷が刻まれていった。
ごめんなさい! 許してください! 助けてください!
悲鳴と吐血に濁った言葉を、獣の如く混沌と喚き散らす。応える者はなく、泣き叫ぶエリーの血が、応接間に飛び散った。
「誰か助けて! 誰か!」
諦めがすぐそばに来る直前に、出た叫びだった。男の声、ナイフが空を切る音、殴打の音、肉を裂く音。全てが鼓動の向こうに遠ざかっていく。
【お願いします。と言え】
その声は、鼓動の手前側から明瞭に、エリーの意識に語りかけた。
「お願いします!」
反射で懇願する。限界だった。血眼で生存の糸口を探る折に、
ナイフを相手に酷使した腕が引きつる。防ぐのが間に合わない。乱れ泣くエリーの額に目がけて、止めの一撃が降り下ろされる。
「誰か! 助けてください!」
絶望に歪んだ細面の叫びが止むと共に、応接間の天井を鮮血の飛沫が横断した。
【†
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