010 死体が教える
早まった。エリーの胃の腑から後悔が込み上げる。
空いた手で口を押さえ、喉まで出かかった酸の香りを堪えた。ヘーゼルの手を痛いほど握っているはずなのに、彼女は動じずに受け止めてくれていた。
死体の頭は、延髄から上が千切れていた。頭蓋、上顎は、建物の屋根に衝突した瞬間に削ぎ落されたのだろう。服装はエリーのものよりも酷く破けており、胴は捻じれ、四肢は開放骨折し、無惨に投げ出されていた。
死体でも、うつ伏せだからと、甘く見ていた。
ヘーゼルが血相を変えてエリーから隠そうとするのも、理解できる惨さだ。
「もういい」
ヘーゼルがエリーの視界を包むように抱き締めた。いつの間にか、エリーは死体に釘づけになっていたらしい。浅い呼吸、今にも胸から逃げそうに弾む心臓、定まらない視線。遅れて自分の憔悴に気づいたエリーは、閉ざされたヘーゼルの胸の中で、情動の嵐が去るまで耐える。
ヘーゼルの大きな手が、エリーの頭を何度も撫でる。「よく頑張った。怖かったな」
エリーは首を横に振った。ぐりぐりと、頭頂を胸にこすりつけ、ヘーゼルの祭服を涙で濡らす。違う、違うの。声が嗚咽に紛れて、形にならない。生々しい死体を目の当たりにして、情動の嵐が吹き荒れても、決して恐怖や忌避は感じていなかった。。
代わりに、魂さえ道連れにされそうな喪失感と、後悔。
何を書いたかも忘れた日記が破かれて、その一ページが暖炉の焚きつけに使われたような、有形の空白が失われる理不尽な情動が胸を締めていた。当然にあると思いこんでいた物を失った後、それが何かを忘れたような、自分の薄情さに心が苦しくなる。
私は――エリーは心の中で声を絞り出す。――私は、この人を知っている。誰かも思い出せないこの人を、失ったんだ。ごめんなさい。ごめんなさい……。声にならない声を、胸の内で繰り返し叫ぶ。
ごめんなさい。謝罪の意に、命乞いが居着いていた。記憶が、涙の熱に融かされて溢れてくる。
――ごめんなさい! このときの命乞いは血を吐かんばかりに切迫していて、それなのに軽く聞き流されてしまった。
霜の降る薄暮の光景が、暗闇に浮かぶ。女は中空で、谷底へ突き放された。落下、断末魔、死相に歪む顔。いくら叫んだところで、死は避けられない。受け入れがたい
――エリー!
無理して甲高くしたような声が蘇る。その声の主は己を顧みず、崖際から身を投げてまで、空から落ちる私を抱き止めてくれた。
短くも長い浮遊感の後、彼の背中から胸板へ鈍い衝撃が貫通する。
嫌いなものを好きになる術を授けてくれた人の声が、女の絶叫を掻き消す声量で、エリーと呼んでいた。
「私」ヘーゼルの祭服を握り締め、崩れるエリーは喉を切る声でこぼす。「エリー、って、呼ばれてたよ……!」
†
泣きじゃくるエリーの背中を、ヘーゼルが子どもをあやす要領で優しく叩いた。思い出せて良かった。と、祝福を口にするには場違いだが。
ただし、ヘーゼルの表情は浮かなかった。
血の臭いが濃すぎて、無傷の二人の足跡はおおまかにしか把握していなかった。が、死体の近くまで寄って、ようやくその動向が浮かび始めている。普段はあまり深く勘繰らないヘーゼルだが、死体周辺の臭跡が奇妙で、その意図を探らずにはいられなかった。
無傷の二人の体臭が、死体の周辺にも微かに残っている。つまり、謎の二人は死体を見つけておきながら放置し、この場を立ち去ったことになる。
それはおかしい。
崖から転落した二人を助けに降りたとして、たとえ手遅れだったとしても、身も凍るような水中に置き去りにせずに一旦陸地に上げるのが普通ではないか。
その点を差し引いても、どうして誰もいないのだろう。二人とも救援を呼びにこの場を離れただけかもしれないが、だとしても一人は居残った方が良い。禁域の地理は村人でも知らない者が多い。よそ者なら猶更だ。死体発見現場にどちらかが居残って、目印になるよう灯りの番をするなり、声で誘導するなり、救援の助けになる役目ならいくらでも考えられる。それに、救援が入れ違いに到着したとき、どう説明するつもりなのか。
ここまで酷い死体だ。二人きりになるのが嫌だったのかもしれない。だが、そんな理由で諍いの種を放っておけるのか。何と言っても死体である。それも、禁域の死体だ。あの飲んだくれはともかく、護律協会が黙ってはいないだろう。たとえお上が動く前でも、村総出で山狩りをしてもおかしくない大事件である。
残りの二人は、一体どこをほっつき歩いているのか。ここを離れて禁域をうろついているなら、どうして水音が聞こえないのか。
それに、三つ目の血の臭いの主、その足取りを辿れないことも気になる。血の臭いは新しい。近くにいるはずだ。どうやってヘーゼルの鼻を掻い潜っているのか。
ヘーゼルの違和感を表すなら、前述のようになる。
ところが、ヘーゼルは直感が鋭いものの、他方、分析など頭脳労働は不得手である。違和感は違和感のまま言語化されず、いわば野生の勘が一抹の不安を伝えているにすぎない。
そのためヘーゼルは、救助に来た立場上、無傷な二人の不審な行動もまた(死体見てテンパったんかなあ)と心配を寄せるくらいだった。
裏を返せば、ヘーゼルの勘は無意識かつ瞬時に、前述の不審点を網羅するほど冴えているとも言える。
刹那、鳥肌が立った。その冴えた勘が騒ぎ出す。
「エリー伏せろ!」
そうは言ったが、足元は冷水が満ちている。エリーの身体に障ってはいけない。咄嗟の判断でヘーゼルは彼女を抱き、上体を捻って立ち位置を入れ換えた。
それと同時に、ヘーゼルの背中に鋭い痛みが刺さる。「イッ」矢羽根のついた針、吹き矢が命中している。
「ヘーゼル⁉」
感極まっていたことも拍車をかけたのだろう。突然振り回されて事態の急変を悟ったエリーが、微かに歪んだヘーゼルの表情を見上げて、取り乱した。
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