009 パルクール

 血の臭いだ。ヘーゼルは屋根伝いに駆けながら、臭いの源へ急ぐ。それも、臭いだけでその変わり果てた姿を嫌でも想像させるほどの、体内由来の濃密な臭気が絡み合う、濃厚な血の臭い。


 霧を滑るように、道を挟んだ向かいの屋根へ飛び移る。向かい風とも言えない、穏やかな空気の流れを切り裂いて走る。その遅々とした空気が、つい先刻やっとヘーゼルのもとに臭いを運んできた。


 現在、禁域内に漂う人間の臭いは、ヘーゼルを除いた五人分。ロバートから聞いていた人数の倍以上だ。五人の内、女性はエリー一人。この際、エリーはエレクトラだと決めつけてしまおう。不明な四人については、無傷が二、負傷……出血が二。


 エリーの衣服には、二人分の血痕が僅かに残っていた。その内、一人の血の臭いを鼻が拾っていたが、近づくにつれてその酷い状態が目に浮かぶように感じていた。


 五分五分で、アルデンスだろう。無傷の二人も近くにいる。


 アルデンスの変わり果てた姿を見せるのは、傷心のエリーには酷だ。


 だからこそ、華奢なエリーには絶対に追いつけないよう、体力に物を言わせて廃墟のパルクールに踏み切った。


 ロバートが適当な連絡を寄越したことも、会規違反も、今はどうでも良い。正体不明でも、とにかく人手があるのは不幸中の幸いだ。


 エリーに人間の死体を見せたくない一心のみで突っ走ったヘーゼルだが、死体を見つけた後のことまでは考えが及んでいなかった。行き先にいるのが誰だか知らないが、上手く協力を取りつければ手分けして死体を運べるし、やりようによっては死体の見た目を綺麗にしてやれるまで、エリーから隠すことだってできるはずだ。


 だが、期待とは裏腹に、ろくでもないことが起きている予感も膨らみつつあった。ヘーゼルはその正体が掴めず、もどかしさを胸に詰まらせていた。


 やがて、崖際にほど近い目抜き通りに、ヘーゼルは着水する。大きく白い一息で、呼吸を整える。ベルトに吊るしたランプを取り、高く掲げて周囲を照らす。街並みに光を滑らせていく。


 一軒の廃商館の壁を過ぎ、戻す。ランプを更に上へ掲げると、真新しい血の線が、寸分の迷いなく縦一文字に引かれていた。


 その真下、血の淀む水面の真ん中に、人がうつ伏せに漂っていた。血の一文字を偶像に見立てて平伏しているようにも、許しを請うようにも見える。身体は無事な箇所を数える方が早いほど、痛めつけられていた。


 ああ、サンタマトゥリ様よ。この人は、もう。


「もぉー、置いてか、ないで、よお」


 背後からの声に毛が逆立った。弾かれたようにヘーゼルが振り向くと、ざぶざぶと水場に苦闘しながら、息も絶え絶えな様子のエリーが歩み寄って来るところだった。


「なっ……エリーおま……なんっ」何で来た。それよりも「ど、どうやって」


「追い、かけるの、大変、だったん、だから」


 膝に手をつき、肩で息をするエリーが、上目遣いで非難がましく訴える。


「それ、より、さあ……」息苦しさよりも伝えたいことがあるエリー。「寒っむい! 水、冷ったい! 信っじらんない! ぎゅって、させて!」


 紫色の唇が切実に凍えていた。これ以上の辛抱は堪らないとばかりに、エリーがヘーゼルに抱きついてきた。ボロ切れとなった服の下の、骨が浮き出た肢体の感触がわかるほど、抱き締められていた。


「な、なあ、エリー。お前……」


 抱擁を受け入れながら、ヘーゼルは戸惑いがちに尋ねようとする。が。


「うぅん、やっぱり、背中の方が温かい」


 と、むずがるようにエリーが背中側に回ろうとするので、死体を隠したいヘーゼルは慌てて自ら背中を差し出した。


「はわあ……これこれえ。生き返るう……」


 代わる代わる、両頬の冷たさが押しつけられた。寒さに強張った肉体がほぐれていくのをヘーゼルは背中に感じつつ、エリーへ尋ねるつもりだったことを自分の胸に問う。


 大変だった、て。そんなんじゃ済まねえだろ。


 エリーが温もる間も、ヘーゼルはうろたえていた。体力や身のこなしは村一番を自負するヘーゼルが、本気で撒くつもりで道順を組み、全力で建物から建物を跳び越えて来たのだ。見るからに貧弱なエリーが息を切らせるまで力を振り絞ったところで、追いつける訳がない。


 いや、尋常じゃない脚力はまだしも、何かもっと、変なところが。


「どうしたの?」


 息を整えたエリーが、汗ばんだ顔を不審げに見上げる。我に返ったヘーゼルは頭を振って邪念を追い払う。得体の知れないものを見る目つきだったかもしれない。そんなの、崖から落ちて不安になっているエリーに向かって、あんまりだ。


 ヘーゼルは両頬を挟むように叩いた。乾いた音が霧の廃墟に良く通る。じんじんと表情が引き締まる。エリーの正面に向き直る。


「何でもねえ」


 エリーの頭をくしゃくしゃに撫でるにかこつけて、さり気なく姿勢を崩し、ランプの光源を壁から遮り、エリーの視線も死体から遮ったつもりだった。無駄な足掻きだ。あの鮮やかな血の線は、一瞬で目に留まる。


「……死んでるの?」


 緊張した面持ちだが、見透かす瞳で、エリーは問う。最も避けたかった事態に直面してしまった。ヘーゼルは顔の中心にしわを集めて、渋い顔で苦し気に声を殺した。上手いかわし方が思いつかない。嘘が下手な自覚はあったが、初対面で見破られるほど酷いと思い知らされた直後である。


 やっと口をついたのは「見ねえ方が良い」という、正直な感想だ。


 目を逸らし、苦々しく忠告するヘーゼル。その所在なく下げられた手に、エリーの指が絡む。震えているのは、湧き水の冷たさだけではないだろう。


「ねえ、聞いて、ヘーゼル」


 しかし、ヘーゼルの目を見据えるエリーの瞳は、水に似て澄んだ決意を湛えていた。


「私、自分がエレクトラかどうかもわかんない。けど、エレクトラは、アルデンスって人と一緒だったんでしょう? そこの人がアルデンスだったなら、エレクトラならきっと、彼を弔うと思うの」


「そうかもな。それができりゃ立派だけどよ、今そんな余裕、エリーにゃねえだろ。やっこさん、男伊達で刺激が強すぎんだ」


「気を遣ってぼかさなくても良いよ」


 ヘーゼルは開きかけた口をつぐむ。


「ヘーゼルの言う通り、怖い思いはもうたくさん。この廃墟も怖いし、死体なんてまっぴら。でもね、何も思い出せないのだって怖いの」


 だから、これは私の下心。ばつが悪そうにして、エリーが苦笑する。


「実は、怖いなりにちょっとだけ期待もあってさ。たとえば、あの人を、もっと近くで見れば、何か思い出すかも、って」


 存外、エリーが強かで、ヘーゼルは目を丸く開いた。要救助者だという先入観から、彼女が弱っていると決めつけていたのかもしれない。


 ただし、そこまで言われたとて、引き下がるべきではないとヘーゼルの本心が告げている。意欲的に立ち直ろうとしているのは大したものだが、今のエリーでは心許ない。


 一方で、指先から伝わるほど震えているエリーは、それでもなお力強くヘーゼルを見つめている。


「格好悪いなあ、私。こんなこと言って、死体を見るのは生理的に無理だって、身体が言ってる。でも、私、ヘーゼルと一緒だったら、少しは大丈夫だと思うの。……だから、お願い、ヘーゼル。私の我が儘を聞いてちょうだい。一緒に来て欲しいの。その間、手だけ、繋がせて」


 エリーがここまで来てしまった以上、死体を見ずに済ませることは難しい。散々悩んだ挙句、ヘーゼルは絡まるその指の震えを鎮めるつもりで、そっと握り返した。

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