004 交わり蕩け落つ記憶
二人で、一つになっていく。いや、一方的に女が搾取されているのか。
どこまでも広がる薄暗がりの中、魂が抜けたように組み伏せられた女が、男と結ばれつつあった。吐息を甘くかけ合う距離。血管にじわりと、温かでも望まない多幸感が染み渡る。嗅がれ、舐められ、噛まれ、女の形が、尋常な男では知り得ない深さで暴かれていった。
本当の意味で一つになり得ないからこそ、熱烈に求める、一方的で絶望的な営み。
だが、男の独りよがりにすぎない行為に、女は自身の色香が否応なしに開いてゆくのが恥ずかしく、許し難く、憤懣を募らせていく。
なのに、逆らえない。逆らうのを、どこかでためらっている。
泣き声を堪える女。相手は、見知らぬ男。
【覚えのある香りだ】
愛撫の口を離し、柔肌に唾液の糸を名残らせて、その男は脈拍のように囁く。男は軽薄に鼻で嗤った。
【テメエの血縁を、どっかで食っちまったらしい】
女の頸動脈を、牙が食い破る。叫びたいのに、声が出ない。恐れ、恥辱、拒絶、そして、甘美。この嗜虐を秘め事と認める自分自身の後ろめたさが、口を苦くつぐませた。
惨めだった。女の身体も、女の尊厳も、知らない内に略奪し尽くされたように痩せさらばえている。
だから女は、おまじないを口にする。
心に麻酔をかけるため、子守唄を口ずさむ。歌い終えたら事が済んでいるように、期待を裏切られるとわかっていても、淡い
歌い出しから間もなくのことだった。ふと、男の責めが止む。甘露を惜しむ血糊の糸を引いて牙が離れ、女を苛んだ指が、静かに溢れる涙をそっと拭い、乱れた前髪を無造作に整えた。
思案気な男の溜め息が首筋をかすめる。
【どうして知っている?】
解せなさそうな声を残して、男の赤い影が、水に垂らした血のように薄暗がりに融けていく。
†
「おい。……なあ。おいって、お姉さん」
滔々とした眠りの底から揺り起こされると、
卑猥な夢を見ていた。そう疑う余裕など、女にはない。
靄が濃く降りるのがシーツの中を想起させ、その狭い空間に二人きりで密着しているような、あるいは夜這いの寸前を目撃した気分に襲われた。
「良かった、気がついたスね」
言葉通り、安堵した人間の面構え。気だるげに口の片側が上がり、鋭い歯を覗かせる。だが、その微笑一面にトラを彷彿とさせる縞模様が浮いており、胡乱な目つきの瞳孔は獣のようにランプの光を集めてギラついていた。
女の背筋が凍った。
誰だろう。わかるはずがない。寝ぼけた女の目でも、一目で知らない人とわかる顔だ。しかも、相手は四つん這いで自分に迫って、逃げ場を塞いでいる。
一気に目覚めた女の自己防衛本能が、けたたましく警鐘を鳴らし、恐怖で心が決壊する。
女が上げた悲鳴は、起き抜け一番の雄鶏顔負けに良く響いた。
「うおああぁー⁉」
何故かトラ縞の強面の方も競うようにたまげて叫んだ。
何が何だか、女の理解が追いつかない。目が覚めると突然、恐ろしい顔を拝まされ、その顔の主が何故か心底驚いた表情で大声を浴びせてくるのだ。女にしてみれば生きた心地がしない状況だった。
双方膠着した絶叫合戦でどうしようもなくなった末、遅れてやってきた脊髄反射で女の手が出た。目の前の強面に一発、ビンタの雷鳴が直撃する。
「ぁおぶん゛⁉」
頬に良いのをもらった強面がよろめく。その隙を突いて、女で強面の身体を強引に押し退けた。バランスを崩した強面は滑稽な叫びを残してピエタ像の台座から転げ落ち、ジャブンと盛大な水柱を立てた。
勢い余って、女は身体を起こしていた。叫びすぎて息が苦しい。空気が靄を含んでいるせいか、呼吸も重い気がする。混乱が怖気、冷や汗、寒気を呼ぶ。身震いを治めるように身を掻き抱くと、コートの袖が千切れてしまった。見れば頑丈そうな生地はどこもかしこもズタズタで、片や半袖、片やノースリーブというただでさえ前衛的な仕立ての上に、背中は肌着まで裂けて地肌を曝け出しており、攻めすぎにも限度がある格好になり果てていた。
悪寒がちっぽけに感じるほどの羞恥をぶちまけられて、女の顔が炎上せんばかりに赤くなる。
こいつか⁉ こいつだ! キッと女は床を睨み下ろした。イヌみたいに頭を振って、濡れた髪を乾かしている。
「ペッペッ……いちちち……うええ、酷え。びしょ濡れだあ。んもー、何もぶたなくたって良いじゃないッスかあ」
女の頭に血が昇ったせいか、強面だと思っていた顔は妙にへんにゃりしていて、叱られた子どものようにブー垂れていた。そのくせ、ランプの油が漏れないようにしっかりと水平を保つという、器用な倒れ方をしている。余裕を感じさせる仕草だ。余計に腹が立つ。
「動くな!」
女の声は裏返っていたが、へんにゃり強面はビクッと目をつむり、首を縮めた。
「私が良いって言うまでそこでじっとなさい、この勘違いの色狂い夜這い野郎!」
起き抜けの渇いた喉で女が罵り、怒りに震える指まで差して誰が女の敵かわざわざ示してやっているというのに、へんにゃり強面は「え? え?」と忙しく辺りを見回した。最後に「まさか」と言いたげな顔で自分を指して「ええ……?」と首を傾げた。
とぼけている。舐められている。舐め……夢に見た光景が不意によぎる。思い出すと恥ずかしさがぶり返し、頬に触れると、汗ではないぬめりが残っている。
おぞましい。血が沸騰する。
「嗅いで舐めたわね⁉ この変態!」
「お、起こそうと思って……」
「本当に舐めてんじゃないわよ! ナニを起こす気だったのよ⁉ ちょっとでもそこから動いたら、さっきみたいには済まさないから、覚悟しろこの助平!」
震える華奢な拳を振り上げて、女が蛇蝎に向けるような眼差しを刺していると、当のへんにゃり強面もたじろいで「ね、姉ちゃんの言う通りだった……」と意味のわからないことを呟く。よその家の人を舐めて起こすな。とは、話に出た姉の言であるが、女はそのことを知らない。
次いで、「にしても変態だの助平だの……」というへんにゃり強面自身の呟きに、いよいよ話の筋を理解したのか、強面が見る見る赤面へと変わる。
「いやいやいや!」慌てて顔の前で手を振って「自分、女ッスから!」
「黙りなさ……へ?」
思っていたものと違う球が返って、女は戸惑った。口から出任せにしても、簡潔な啖呵を大真面目に切られては、こちらの思考がこんがらがってしまう。
女は強面のことを今の今まで男だと思いこんでいた。口調はもとより、髪は黒、銀、白が入り混じり、ソフトなフェザーモヒカンにウルフカットを合わせたスタイル、目つきの鋭い顔にはトラ縞模様を浮かべ、革のイヤーカフも相まって、かなり粗野な印象だった。その上、強面の身長は男と比べてもかなり高い方に見える。
だが、言われてみると男にしては声が高いし、首から下を検めると、毛皮のコートの前を開いた中は、着崩してはいるが一見すると女物の祭服を着こんでいる。白地に銀の刺繍が一層、繊細さを引き立てていた。
いたにはいたのだが、パンツスタイルとはいえ、祭服の前垂れを裏返して開けっ広げているにもかかわらず、尻もちをついてからずっと胡坐をかいているのは減点じゃなかろうか。
決定打がない。判断に困る。女は微妙な表情で固まった。
「それに自分、お姉さんを助けに来たんスよ! 崖から何か落ちる音が聞こえて……見に来てみりゃ、嫌な予感が当たってんだから。恩に着せる気はないッスけど、ありがとうって言ってくれたら嬉しいなあ、なんて」
言葉の半分も、女には届いていなかった。やー、でも、あんな高いとこから落ちたのに、目立った怪我がないのは奇跡ッスよ……。
崖から落ちた。またもへんにゃりした強面の言うことを耳にし、細々と復唱した瞬間、女は頭痛に襲われた。天地が繰り返し入れ替わって目が回り、硬い岩に身体を苛め抜かれた瞬間がフラッシュバックする。
私を庇ってくれた、あの人は。過呼吸に呑まれる寸前に、男の身を案じる自分が現れたことに、女はどこか安心した。
の、だが。そこから先に、心が進まなかった。
女の追憶のさかのぼる先に、無窮の虚無が立ち塞がっている。崖から落ちた恐怖や苦痛、人を心配していた心が急速に消えてゆき、目に映り耳に聞こえ肌に感じる全てが空虚な作り物めいて、自分だけが取り残された心細さに女の心が染まっていく。
――あの人って?
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます