005 きな臭さ
強面が心配そうに女の顔色を窺った。
「あの、大丈夫スか? 落ちたんだからそりゃ、どっか痛いスよね?」
女はずっと呆然としていたのだろう。いつの間にか距離を詰められていたが、そんなことはもはやどうでも良くなっていた。
「何でもない」と強がって取り繕う女に、強面は一拍だけきょとんとし、すぐに微笑みに切り替えて右手を差し出した。
「ヘーゼル・バーンズ。スペイ姉ちゃんの妹分ス。お姉さんのお名前は?」
ヘーゼルの差し出した右手にも、トラに似た縞模様が隅々にまで刻まれていた。凶暴な風貌とは裏腹に柔らかく開かれた手の平は上向きで、肘は伸びており、女が心を許してくれるときをひたすら待つつもりで、一線を引いて留まっている。
女も手を伸ばして、ヘーゼルに応えようとした。その手に繋がっていないと、今にも自分が消えてしまいそうな気がした。
「えっと、私は――」
繋がる前に、切れる。
瞬間、女の喉に石が詰まったかと錯覚した。私は。その先がどうしても出てこない。姓から、いや、やっぱり名から。思い出すも何も、何でもないことのはずなのに、嫌な汗がどっと流れる。私の名前は――。
あれ? もしもし? ヘーゼルの声が遠く聞こえた。
先程まで当たり前に女の内側にあったはずの心が、身体から蒸発したように感じる。手足の感覚は覚束なく、靄が薄まった先に現れた景色が全て舞台の書き割りのように映る。高い天井、抜けた空。床一面は水浸しで、かつて整然と並んでいたであろう長椅子の列と、かつて屋根だった瓦礫が小島となって浮かんでいる。
そして振り仰げば、顔の欠けたピエタ像。
聞こえてまス? 眩暈を堪えて、女はヘーゼルに目を戻す。
女を案じるヘーゼルの目。ランプの淡い光すら反射する澄んだ瞳が鏡となって、呆然とする女自身の相貌を映していた。
そうだ。私は、私はちゃんと、ここにいる。
「私は――」
ヘーゼルの瞳に映っているのは、
それが女自身の顔面だとは、にわかには信じ難かった。
「――ここ、どこ……ですか」
やっと声が這い出た。女自身の名前より先に、その疑問が朦朧と口をついたは、なけなしの強がりがそうさせたからだ。
「やだなあ、崖の下って教えたトコじゃないスか。お姉さん、足を踏み外したか何かで落ちちゃったんスよ」
「どこから」
「どこ……って、そりゃあ、崖を掘った道から」
「そんなとこ知らない!」
女は牙を剥いて訴えた。ただならない雰囲気に、ヘーゼルの右手が僅かに下がる。
「お、お姉さん……?」
ここがどこなのかも、今がいつなのかも、自分がどこから来たのかも、どんな理由で廃墟で目が覚めたのかも、自分が何者なのかも。知っていて当然のことを必死に思い出そうとすれば思い出そうとするほど、女自身の実存が削れていく。
「わかんない……何も、わかんない……」
女は虚ろに潤んだ目を回し、今にも崩れそうな、道化た作り笑いで頬がひくついた。
身元不明な女の頼りない両肩が、目覚ましいほどガッシリと掴まれた。
「ちょ、ちょっとたんま! 一旦たんま!」
有無を言わさない語気で、ヘーゼルが迫る。
「何か訳アリな臭いがするッス! 無理ッス! 自分、無理ッスよ!」
両肩の圧で女が委縮する隙にねじ込み、ヘーゼルがまくし立てる。
「自分バカだから、難しい相談とか無理ッス! それにこんな寒い所、長話にゃ良くねッスよ! 風邪引いちゃいまスって!」
とりあえず、温かい所で、頭の良い人と話をするまで、ウジウジ悩むのは後回し! 良いッスね! 女に反論の余地はないとばかりに決めつけられた。
子供騙しも良いところだ。しかし、どん詰まりを今の心境で解決できるとは思えない。子供騙しの方がよっぽど頼もしく感じる。
意見の一つも出さないまま流されるのも不安なので、女は口を挟みかけたが、言い聞かせるときのヘーゼルは元の強面を取り戻すようで、言葉に詰まった。女は毒にも薬にもならない反論を呑み、
話が折れそうな流れに、ヘーゼルが少し困った顔で、慰めるように言う。
「そんじゃあ……そーだ! お腹減ってないスか? スープとかお茶とかなら、詰所ですぐ出せっから。な?」
言葉に釣られて湯気の立つスープと茶を思い浮かべると、控え目に腹が鳴った。聞いてしまったことを誤魔化すようにヘーゼルがくしゃっと笑みを咲かせ、女の顔が赤くなる。
女はあくまで渋々だと装って、ぎこちなく頷いた。
「よしゃ、決まりな」
ヘーゼルは女の萎えた両肩をパンッと軽妙に叩き、胸を張って腰に手を当て、爽やかな笑顔を女に贈ってくれた。だが、決まりが良かったのはほんの束の間のことで、ヘーゼルは渋面で頭を掻いた。
「ただ……こんな啖呵切っといてダサいんスけど、今すぐ、って訳にゃいかねーんスよねえ……」
口まで運ばれた餌をお預けされた気分だった。しかし、直前より幾分か晴れたような気落ち具合で、女は理由を尋ねる。
ヘーゼルは胸一杯に鼻で息を吸い、何か語りたがる目で女を一瞥すると、一瞬だけ相好を崩し、再び強面に引き締まった。
「崖を通るのは男女二人組って聞いてたンすけど、これ……きな臭いスね」
ヘーゼルが鼻を空に向けて、しきりに嗅いだ。
「やっぱり、人の臭いも、血の臭いも、聞いてた人数よりずっと多いんスよね」
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