002 崖で何が起きたのか
険しい崖を、二人で転がり落ちている。
二人の姿は夜霧に隠され、助けを得るなど望みようもなく、ましてや追い討ちされるまでもなく、命の危機に瀕していた。
一組の男女だった。どこかで止まるのを一心に願い、全身で祈り手を組むように固く抱き合う。成す術など他にあるはずもなかった。
ただ、
彼女を守ってひしと抱く彼は、とっくに全身が岩肌に裂き尽くされて、頭を酷く打ってからは呻きの一つも上げられなくなっていた。代わりに彼は、己を顧みず女を守った証を立てるかのように、ひたすら頭を打ちつけ、おびただしい数の血判を崖に残していく。それでもまだ証は足りないとばかりに、男の意思なき腕は女を抱きしめる。
だが、頑ななまでの献身にも、とうとう限界が訪れた。
女を抱きしめていた腕は次第に解けていき、崖からせり出した巨岩に衝突した瞬間、大きく弾んた拍子に二人は引き離されてしまう。
霧の向こうに男の姿は呑まれ、女は独りで崖を落ちていった。
二人の別れを境に、崖には緑が増えていく。女はマツの灌木をへし折り、時に弾き返されながら、これまで彼が引き受けていた傷のツケを払って余りあるほど叩き揉まれ続けた。
霧と岩と緑とを、直滑降に切り裂いて、女は奈落の底へ至る。
そこは霧深く、森に侵された廃墟があった。
辛うじて残った壁と柱が苔むして、在りし日の聖堂の威容を意地でも伝えるその廃墟は、屋根が腐り果てて空を拝んでいた。女は背中から梁に激突し、エビ反りでひしゃげ、汁気のある生肉が粘るように垂れ、滴るように落ちる。
落ちる先には、一基のピエタがたたずんでいた。
ピエタとは、聖母子像である。死せる神の子を、その母が抱く構図の美術全般を指す名称だ。
石膏でできたそのピエタは、長らく霧雨と隙間風に曝されて、風化している。聖母の腕の中にあるはずの神の子の像はなく、空しく開かれた両腕に虚ろを乗せて、聖母は今日まで静かに俯いてきたのだろう。
女は頭から、聖母の頭部に衝突した。
くすんだ石膏の白に、弾ける形の血痕が付着する。女の骨が破裂し、肉が挽かれ、組織が飛び散る不協和音が廃聖堂の霧に吸われた。
女は自らの血に滑るようにして、丁度、不在の神の子の代わりとなるように、聖母像の腕の中へ墜落した。
遅れてはらはらと、瓦礫と枝葉が、聖堂内に降り注ぐ。
女は微かに動いていた。しかし、それは生ある者の動きではなく、脊髄反射が見せる命の残響だ。体温を失いつつある肉体は、もはや幻覚ですらない仮想の苦痛から逃れようとして、びくん、びくんと、痙攣する。
苦悩にまみれ、苦痛に耐えて、その間は心を殺し、あらゆる業苦が去るのを待つ。崖の滑落はまさに女の人生の縮図であり、この結末はある意味で救いであったのかもしれない。
聖母に看取られながら、何をも唱えない、無呼吸の喘ぎ。今更になって聖女や神がのこのこ現れたところで、誰が縋ろうものか。誰が祈ってやるものか。沈黙がそう物語るかのようだった。
その不徳を恥じるように女の頬は引き攣り、白目を剥いたところへ、頭の裂傷から溢れた血を涙の代わりに溜めていく。
しかし、この場に命はなく、ましてや遍く世に人の思い描いた神などいなかった。
肉が恥を思わないように、ただ人の形に似せられただけの古い石膏に、悲しみはおろか、心などあるべくもない。
だが、そのような無情が世の理であるにもかかわらず、この聖母像には憐憫の情があった。腕の中で冷たくなりゆく子のために、聖母像は真っ赤な血の涙を流したのだ。
女が衝突し、血痕がべったりついた箇所から石膏が崩れ、中からガラス玉が露出する。
真鍮の蔦細工で補強されたその玉の中には、深紅の血が満ちていた。
ガラス玉の中でどれほどの歳月を経たのか、その血は眠れる鼓動を打ち、確かに生きている。
崩れた余波でガラスにひびが走る。僅かなひびから血は流出し、あたかも聖母が、哀れな女の死を嘆くかのような、滂沱の血涙となって、頬を伝い、顎から流れ落ち、血飛沫を上げて、女の胸に注がれていく。
胸にびたびたと注がれる血が、女の不本意な死に装束に染みていく。
にわかに、血の染みがさざめいた。血は芽吹くが如く、血の糸を方々に伸ばし、女の肢体をまさぐり、検めていく。切り傷、刺し傷、擦過傷、出血、内出血、内臓破裂、解放骨折、陥没骨折、剥離した爪、吐血……血の臭い立つ場所に、血の糸は強く惹かれた。
やがて血は、特に濃密な血の臭いを嗅ぎとる。
割れた頭から止めどなく流失する血液。血の糸は女の頭に群がって、傷の中へ侵入する。聖母像の台座に流ていた血をも絡めとり、女の頭脳に己を満たしていった。
内側から縫い閉じるように、血の糸が頭の割れ目を塞ぐ。傷の合わせ目に爛熟した血液が満ち、女の体内を巡り始め、全身の傷を無理矢理塞いでいく。
やがて、剥いた白目がぐるりと瞳を取り戻した。
「けっほ」
女が肺に溜まった血を吐き戻した。同時にその血反吐を追って口内から血の糸が伸び、一滴余さず吐血を絡めて引っこんだ。
女の痙攣は止み、おぞましく見開かれた目がウトウトと夢現をさまよい始める。凄惨に血に塗れていたはずの廃聖堂には一滴の血痕も見受けられず、聖母の腕の中で眠れる乙女が加わり、いっそ静謐を極めている。
やがて、安らかな寝息が廃聖堂に漂った。
女の寝息に霧が煽られて、世界の片隅で人知れず翻る反撃の狼煙となる。
春を待つ国の、薄暮を過ぎたとき。夜が明けるまでには、まだ遠い頃の出来事であった。
†
高い崖の中腹に、道が掘られている。
通行の用に間に合わせた粗末な道は、至る所が風化し、一歩踏みしめるそばからガレ場となるほど脆い。
人里からそう離れてはいない。しかし寂れた断崖絶壁に、人影。崖に合わせた迷彩を着て、人目を忍ぶ者たちが、霧の谷底を口惜しそうに見下ろしていた。
一人が舌を打ち、面倒臭さの滲んだ溜め息をつく。
「仕方がない……ボサッとするな。状況は継続中だ。懸垂降下の準備を」
別の一人から断固拒否の剣幕を浮かべるのに先んじて「嫌なら撤収しても良い。その代わり、お前がカーディナルに報告しろ。『標的を見失った。だが安心してくれ。ありゃ十中八九死んでいる』とでもな」と制する。「大したもんだ。尊敬するよ。俺には到底真似できん」
剣幕が鈍る。不満の発散を封じられて、忌々し気に空を仰いだ。
視線の先は黄昏の空、音も無く風切る翼の怪鳥が悠々と旋回している。羽ばたきごとに翼に降りた霜が剥がれ、残光を受けてきらめく結晶が、細く谷底へ舞い落ちていった。
己の不運を呪うのも束の間、彼らは気を切り替えてロープ固定用のペグを打つ場所を探る。
そこら中の岩が脆い。焦らず、しかし手際良く、自分たちの命を預けるに値する始点を選定する。
「ここしかないか」
崖道には電話線が通っていた。ケーブルの固定具を食いこませた岩盤は、設置者が目を利かせただけあって頑丈だ。先人が残した目印を利用しない手はなかった。
「住民の財産に触れるのは忍びないが……」
最初の金槌を振り下ろす。
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