無原罪御宿の吸血鬼 ヴァンパイア・イン・イマキュレート・コンセプション 悪女と呼ばれた記憶喪失の女は、凶悪吸血鬼の血を宿して新生する
ゴッカー
1.χαίρω χαριτόω
001 ヘーゼルの慌ただしい夜
「おめでとう、恵まれた方。主があなたと共におられる」――ルカによる福音書 1章28節
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まただ。渓谷の方から音が届いた。
崖道の終わりにある麓の古びた教会。それを改造した関門、その詰所で、ヘーゼルの耳がピクッと動く。ヘーゼルは詰所をうろつく足を止めず、顔だけ上げた。
最初は何かが転がり落ちる鈍い音。これは落石か。今度は
そんな予定あったっけ。あ、いや、また連絡を聞き流したか、ド忘れしたか。
実際、ここ数日のヘーゼルは上の空で過ごしてきた。よりにもよって大好きな姉の臨月ど真ん中に夜番が回るとは。村に融通を利かせるだけの余裕がないことはヘーゼルも承知しているが、運が悪かったで済まされたくもなかった。
発散のあてもない不満を募らせて、部屋をうろつく足運びが乱暴になった。
この上、村の直通回線が切れるかどうかしたら、ヘーゼルもキレてしまいそうだ。
電話が鳴った。その日の物憂さを綺麗さっぱりチャラにしてくれる響きだった。
呼び鈴一打で受話器をもぎる。この通話のために壁の電話の前に張りついて、ヘーゼルはそわそわと右往左往しながら呼び出しを待っていたのだ。
「生まれた⁉」
開口一番、誰何を飛ばして送話器にかぶりつく。
ヘーゼルの声量に電話口の人物はたじろいだが、咳払い一つで持ち直し、苦笑交じりに『ロバートだ』と名乗った。
『その声はヘーゼルだな? まだだよ。陣痛は来たが、どうも本番のやつとは違うらしい』
ロバートは姉婿だ。陣痛が来たらしい。いよいよか。心が逸る。
「義兄さん? な、な、今日、生まれそう?」
『さあな。今日かもしれないし、一週間後かもしれない』
途端にヘーゼルは見るからに老けて興味を失くし、「そスか。じゃ」と電話を切ろうとする。
『待て待て、おい! まだ切るな! もしもし⁉』切る寸前で、渋々受話器を耳に戻す。『ヘーゼル、ソーマ護律官は?』
ヘーゼルは背後に目配せした。そこそこ立派な祭服に仮面を着けた不審な女が、デキャンタの砦を築いた机に籠城し、目を回しながら杯を傾けている姿があった。
見るに堪えない。
「しこたま飲んで、くだ巻いてる」
電話を待つ間、ヘーゼルはこの護律官、ミキ・ソーマの絡み酒に悩まされていた。「そーんなすぐ生まれる訳ないよ~」とか「心配したってお産は早まんないよ~」とか、ミキときたらヘーゼルの気持ちをちゃんと理解した上で、その気が気でない様子を肴に飲んではゲラゲラ笑ったのである。
「そんなカリカリしてると、赤ちゃんが生まれる前におばさんになっちゃうよ~?」
なんてからかわれたときには、さすがに額に青筋を浮かべて「いーや
思い出すほどに鬱陶しい。ヘーゼルは歯ぎしりした。『ヘーゼル?』ロバートに呼ばれて気を取り直す。
「何でもない。で、義兄さん、若隠居に何か用?」背後で酔っ払いが「店仕舞いれーしゅ」と陽気に叫ぶのを、無視する。
『違う。ヘーゼル、ソーマ護律官に勘付かれないように聞いてくれ』
義兄のただならない雰囲気に、ヘーゼルは耳をそばだてる。
『訳あってよそ者二人を崖道に通した。ソーマ護律官にバレないように取り計らってくれ』
「は⁉ ちょ⁉」
『おい、声を抑えろ!』
空いた手で口を塞ぐヘーゼル。こっそり酔っ払いの方へ振り向くと、雲と雷雨を模した銀仮面が、いつの間にか額を突き合わせる距離に迫っていた。
ランプの光を背負ったミキの影が、ヘーゼルに重く落ちた。ミキよりずっと背の高いヘーゼルだが、今は壁掛け電話にかぶりつくために腰を曲げていた。馬上の人以外から見下ろされるのは久し振りだった。
表情の読めない無言の圧迫に、ヘーゼルは生唾を呑んだ。
「おしっこ行くの!」
酔っ払いは朗らかに宣誓して、千鳥足でドア枠に肩をぶつけながら、詰所を後にした。
ヘーゼルは深いため息をついて、そのまま、焦りを堪えて受話器に囁く。
「村の奴らならまだしも、何勝手な真似してんスか。そこ、ガッツリ立ち入り禁止ッスよ」
『良く聞いてくれ。スペイに陣痛が来たとき、助産師は出払ってた。初産で、俺たち夫婦の知識は浅い。パニックになりかけていた俺たちを助けてくれたのが、さっき言った通りすがりのよそ者二人だったんだ』
「え、大恩人じゃないスか!」
『その大恩人がのっぴきならない事情を臭わせて、先を急ぐと言われたらお前、引き止められるか?』
普通なら、すぐに答えが浮かぶ話ではない。そもそもあの崖道は掘りっ放しの粗末な造りだし、真下には護律協会の定める禁域、手つかずの廃墟街が広がっている。入ってはいけない以前に危険だ。
しかし、ヘーゼルはとんでもないとばかりに「無理!」と即答した。
規則とか責任とか安全確保とかの複雑な解釈をあーだこーだこねくり回すよりも、単純明快な恩返しのルールに従う方が、ヘーゼルの性に合っていた。
『だろう? ならせめて、ご安全にエスコートした方がマシってもんだろ』
「でもそれなら」義兄さんがやりゃ良いじゃん。と口にしかけた台詞を呑む。
ロバートは今、臨月の姉に付き添っていて離れられない。個人的な恩義のために規則違反に目をつむる以上、身内であるヘーゼルにお鉢が回ってくるのは当然の帰結だった。
「貸し一つッスよ」
『助かる。お客人は男女の二人組。名前はアルデンスとエレクトラ・ブラン。女っぽい男と痩せた女だ。今頃崖道だろうから、様子を見』
ブツッ、と通話が途切れる。
「んお。もしもし?」
返事はない。通話に必要な電力が尽きたのだろう。ヘーゼルは受話器を戻した。
発電が不安定なのも、蓄電が心許ないのも、今に始まったことではない。そもそも、こんな片田舎に電話回線やバッテリーがあること自体、ご立派に過ぎるくらいだった。
肩をすくめて、ヘーゼルはポールハンガーから毛皮のコートをなびかせて、袖を通す。と、勢いをつけた拍子に袖が当たり、同じポールに掛けてあった防寒帽が床に落ちる。
その帽子は、妙にゆっくり落ちるように見えた。何か、とんでもない見落としがあるような気がする。
「……んん?」
そうだ、電話がかかる前に聞いた、何かが落ちる音。
義兄はよそ者に崖の道を教えた。今頃崖道を通っているという二人組。滑落。じゃあ、鏨を打つ音は。何か固定しようとしている。例えば、ロープを結ぶ金具とか。崖下りに丁度良い具合の。
片方落ちて、無事な方が助けに降りようとしてんじゃね?
ヘーゼルは青ざめて、かすれた引き入れ声で絶句した。偶然、便所のミキが嘔吐する声が重なり、耳が腐るような不協和音が響く。
ヤバい。準備を急ぐ間、ヘーゼルは心の中で何度もそう呟いた。
ポールハンガーから更にショルダーバッグをひったくった。ローチェストの引き出しを片っ端から開け放ち、見つけた救急箱をバッグに詰める。開け方が乱暴だったおかげで、度数も値段も高そうな蒸留酒入りの小瓶が、引き出しの奥の方から転がってきた。滑らかな琥珀色が瓶の中で揺らめいている。当然それも失敬した。消毒には使えるだろう。
窓の木戸を少し上げる。雪を押し退ける感触。暗闇の中で、雪の白さが窓明かりの形に浮かんでいる。隙間から夜の冷気が忍び寄った。
吊り台からランプをぶんどる。
詰所を出たがる足を引き返させて、急ぎ足でヘーゼルは便所に寄り、ノックする。
「崖の見回り行くんで! じゃ!」
ほとんどチェックポイントを素通りする足取りで、ヘーゼルは颯爽と駆けて行った。
走りながら行動指針を立てる。崖上の方は無事。仲間の救助を試みているかもしれない。命綱を用意しているのか。ならこの際、冷静に事を進めていると信じてしまおう。すると、落ちた方の救助が優先だ。一刻一秒を争うのは、落ちた方。谷底の廃墟街へ。
「ボエ……おねが……待っ……背中、背中さすって、ちょ、ヘーゼル……ヘーゼ、ルしゃ……ん、ぉろろ」
酒飲みの見る悪夢が具現する便所から、助けを求める独り言が吐き捨てられていた。
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