第3話『野良フェンリルの採用面接』



 タラップを降りると、そこは再び極寒の世界だった。

 だが、俺には防寒の備えがある。

 シィが等価交換で用意してくれた「極地用防寒服魔導式保温」だ。

 マイナス四十五度の冷気も、心地よい涼風程度にしか感じない。


「……ひどいな」


 雪に埋もれた銀色の狼を見下ろし、俺は眉をひそめた。

 中型犬ほどの大きさ。まだ子供か。

 近づいてみると、その傷の深さがよく分かった。

 背中には巨大な爪痕。足はおそらく骨折している。そして何より、体温が危険なほど低下している。


 このまま放置すれば、あと数分で死ぬだろう。


「……」


 狼が目を開けた。

 金色の瞳。

 そこに宿っていたのは、諦めというより、納得だった。

 弱者が強者に食われる。ただそれだけの摂理を受け入れている目。


 その目が、ひどく癇に障った。


「……チッ」


 無意識に舌打ちが出る。

 通り過ぎようとした足が、鉛でも埋め込まれたように動かない。


「おい」


 あー、クソ。何やってんだ俺は。

 非効率だ。リスクだ。分かってる。

 だが、俺はしゃがみこみ、狼の鼻先に手を伸ばしていた。


「ここで死ぬか? それとも、俺に飼われるか? 選べ」


 狼は最後の力を振り絞り、ざらりとした舌で俺の指先を舐めた。


『絡印の反応あり。契約完了です。この個体は貴方を主人と認識しました。……種族名はフェンリル。潜在能力はSランク相当です』


 シィの声が頭の中に響く。

 呆れているのか、面白がっているのか。


「……黙れ。用心棒くらいにはなるだろ」

『まだ何も言っていませんが。……了解』


 俺は狼を抱き上げた。

 新品の防寒服に泥と血がべっとりと付く。

 狼は見た目よりもずっと軽い。ろくに食べていなかったのだろう。あの白すぎる毛色のせいで、親に見捨てられたのか。


     ◇


 要塞の中へ戻ると、柔らかな暖気が全身を包み込んだ。

 だが、今の俺の腕の中には、泥と血にまみれた獣がいる。

 純白の敷物が汚れるのを気にする素振りも見せず、俺はまっすぐに浴室へ向かった。


『マスター。洗浄モードを「生体用・弱」に設定しますか?』


「頼む。それと、怪我の治療もだ」


 バスタブにお湯を張り、狼を沈める。

 お湯が瞬く間に赤黒く染まっていく。

 泥と血の匂いが充満する。


「……あー、とんでもないことになったな」


 せっかくの浴室が血と泥まみれだ。


「グルゥ……」


「暴れんな。死にたくねぇんだろ?」


 俺はシャワーヘッドを手に取り、手早く汚れを洗い流していった。

 等価交換で召喚した特殊な治療液のおかげで、汚れが落ちると同時に傷もふさがっていく。

 骨折していたはずの足も、ゆっくりと元の形に戻っていく。


『治療進捗:外傷完治。骨折は接合完了。体温も安定域に回復しました』


 十分後。

 汚れの落ちた狼は、見違えるようだ。

 濡れた毛並みはプラチナのように輝き、痩せっぽちだが骨格の良さが窺える。


『乾燥を開始します。エアブロー、出力30%』


 ブォォォォン……。

 温風が狼を包む。

 狼は目を細め、脱力した。

 完全に骨抜きだ。


「……なんだその顔は。現金なやつだな」


 俺は苦笑しながら、温風を当て続けた。

 乾いていくにつれ、毛並みがふわふわに膨らんでいく。

 想像以上のモフモフ具合だ。


     ◇


 リビングに戻り、ソファに座る。

 足元には、すっかり元気を取り戻した狼が、お座りをして待機していた。

 その視線の先にあるのは、俺が手にしているビーフジャーキーだ。


「欲しいか?」


「ワンッ!」


「……お前、狼だよな?」


 完全に犬だ。

 まあいい。俺はジャーキーを放り投げた。

 狼は空中でそれをキャッチし、喉を鳴らして咀嚼する。


 さっき契約時にシィが言っていた、Sランク相当の潜在能力。ゼインたちのパーティと同じランクだ。


 皮肉なもんだ。

 あいつらはSランクの看板に胡座をかいて没落し、俺はSランクの魔獣を拾って仲間にする。


「名前が必要だな」


 俺は狼を見下ろした。

 白くて、ふわふわで、そして運命的に出会った。


「……『フィン』だ。どうだ?」


「ワフン!」


 気に入ったらしい。尻尾が千切れそうなほど振られている。


「よし、採用だ。フィン、今日からお前はここの警備主任だ。給料はビーフジャーキーと、毎日のブラッシング。不満はあるか?」


「クゥーン」


 フィンは俺の膝に前足を乗せ、頭を擦り付けてきた。

 温かい。

 生き物の体温。

 この要塞の暖房とは違う、心臓の鼓動が伝わってくる温かさ。


 俺は無意識に、その頭を撫でていた。

 最高級の絹すら霞むほどの、極上の手触り。


『マスター。心拍数が低下。リラックス状態を確認』


「……うるさい。これはブラッシングという業務だ」


『承知しました。とても効率的な業務ですね』


 シィは何も言わずに、照明を少しだけ暗くした。

 同時に、どこか懐かしいスローテンポの曲が流れ出す。


「……なんだこの曲は」

『心拍数が亢進していましたので。鎮静化に有効とのデータがあります』

「大きなお世話だ」


 だが、止める気にはならなかった。


 膝の上には、信頼しきって眠るフィン。

 部屋には静かなピアノ曲。そしてコーヒーの香り。


 ……悪くない。


 俺は温かいコーヒーを飲みながら、窓の外の闇を見つめた。

 もう、孤独ではない。

 最強の要塞と、優秀なシィと、モフモフの相棒がいる。


「さて……次はどこへ行こうか、フィン」


 返事はない。ただ、安らかな寝息が聞こえるだけだった。

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2025年12月15日 20:10
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追放された荷物持ちは要塞でコーヒーを飲みながら元仲間の没落を眺める ろいしん @leucine

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