第2話『要塞の朝と機能拡張』



 翌朝。

 設定された『朝』を告げる、柔らかな人工の陽光が瞼を打つ。


「……ん」


 真っ白な天井。

 身体に吸い付くような寝具。


「……よく寝た」


 泥のように眠る、とはこのことか。

 昨晩はコーヒーと最高級の牛肉を堪能して、そのまま意識を手放した。


 体を起こし、伸びをする。

 パキパキと鳴る関節。痛みなし。

 凍傷寸前だった手先も、完全に治っている。


『おはようございます、マスター』


 シィの落ちついた声。


『睡眠時間、8時間半。睡眠深度98%。バイタル、異常なし。体調は万全です』


「ああ、おはよう。シィ」


『朝食の準備はいかがなさいますか?』


「その前に……シャワー浴びる。汗流したい」


『居住区画後部にサニタリー設置済み。ホットシャワー、及び泡立つ浴槽が使用可能です』


 ……は?

 泡立つ浴槽?

 この贅沢さを処理するのに数秒かかる。

 顔が引きつる。


「……ここ、ダンジョンの中だよな?」


『絶対防衛要塞内部です。外環境との因果は遮断されています』


 外が地獄でも、ここは物理法則ごと隔離された楽園。

 笑いが込み上げる。


 浴室は狭いが、機能的だった。

 温水の出るシャワーと、体を沈められる小さな浴槽。

 足裏に感じる床の温もりが、ここがダンジョンであることを忘れさせる。


 蛇口を捻る。

 ザァァァァァッ!!

 湯気が立つ。熱湯が、惜しげもなく迸る。


 熱い。

 その感覚が、凍えきっていた肌の細胞を一つずつ叩き起こしていく。

 痺れが溶ける。指先の感覚が戻る。水魔法も火魔法も使わず、ただ捻るだけでこれだ。

 こわばっていた肩の力が、湯と共に排水溝へ流れていく。


 生きている。

 ただ生存しているだけじゃない。

 人間として、「文化的」に生きている。

 当たり前の日常が、これほど尊いとは。


 十分ほど湯を浴び、ふわふわのバスタオルで体を拭く。

 鏡を見る。

 昨日までの死相は消え、理知的な光が瞳に宿っていた。


「……悪くない」


 等価交換で出現した部屋着に着替え、リビングへ。


『朝食の提案。焼きたてクロワッサン、新鮮な野菜のサラダ、スクランブルエッグ、コーヒー。現在の最適解です』


「完璧。それで頼む」


『了解。等価交換……完了』


 テーブルに出現した朝食。

 そのクオリティは、貴族が通う店すら凌駕している。


 クロワッサンを手に取る。

 指先から伝わる熱。焼き上がったばかりの温もりだ。

 鼻を近づけると、バターの芳醇な香りが脳をくすぐる。

 大きく息を吸い込み、その香りを肺の奥まで充満させる。食べるのが惜しいほどだ。

 

 ゆっくりと、齧る。

 サクゥッ。

 軽やかな音が響き、何層にも重なった生地がホロホロと崩れる。

 口いっぱいに広がる甘みと、濃厚なスクランブルエッグの塩気。


「……っ」


 美味い。

 理屈抜きに、脳が震える美味さ。


 砂糖を多めに入れたコーヒーを啜り、窓の外を見る。

 ガラスの向こうは、相変わらずのホワイトアウト。

 視界ゼロ。気温マイナス45度。

 死の世界。


「……彼らは、どうしているかな」


 口をついて出た。

 心配? まさか。

 この圧倒的な格差を確認したかっただけだ。


『推測。彼らの現在生存確率は六十%まで低下』


 シィが淡々と告げる。


『テント設営不備による低温障害。食糧凍結によるカロリー不足。睡眠不足による判断力低下。……着実に「詰み」へ向かっています』


「そうか」


 クロワッサンをもう一口。

 甘みが、より強く感じられた。


 ざまあみろ、なんて言わない。

 ただの事実だ。

 彼らは「コスト」を削った結果、より大きな代償を払っている。

 自業自得。


「……移動するか。ここにいても暇だ」


 カップを置く。

 生活基盤は整った。次は、このあふれるリソースをどう使うか。


『現在の魔石在庫:クズ魔石換算で約二十個分。補給を推奨します』


『了解。動力系、異常なし。マナ・ドライブ接続。……目的地は?』


「奥だ。より深層へ」


 地上? 戻るわけがない。

 裏切り、搾取、見えないコストへの無理解。あんな泥沼に帰れば、また同じことの繰り返し。

 それより、人が寄り付かない未踏エリアで、誰にも邪魔されない理想郷ユートピアを築く。

 この『要塞』があれば、それが可能だ。


「魔石の補給も必要だ。この快適さを維持するには、燃料カネがかかる」


『ルート設定。第六十一層へ』


 ズゥゥゥン……。

 腹の底に響く重低音。要塞が覚醒する。


 キャタピラが回転し、猛スピードで進む。

 窓の外を、白い景色が流れていく。

 時折、魔物の影が見えるが、こちらに気づく様子はない。

 認識阻害機能が正常に動作しているのだろう。


 道中、何度か警戒アラートが鳴ったが、シィが自動迷彩で対処した。

 俺はソファでのんびりと菓子を食べていただけだ。


     ————


 その頃。

 ゼインたちは、本当の地獄を見ていた。


「っ……さ、みぃ……」


 ガチガチと歯が鳴る。

 テントの中だというのに、外と変わらない冷気が吹き抜ける。寝袋の表面には霜がびっしりと張り付いていた。

 一晩中吹き荒れた隙間風が、体温を根こそぎ奪っていったのだ。


「誰か……火を……」


 聖女エリスの声も掠れている。

 自慢の金髪は、凍った湿気でバリバリに固まり、老婆のようだ。


「薪が……湿気ってて……つかねぇよ……」

「魔道具……動かねぇ……」


 絶望的な報告。

 いつもなら、リドが乾燥薪を用意していた。

 メンテも完璧だった。

 今、手元にあるのは水分を含んで凍りついた木切れと、故障したガラクタだけ。


「くそっ……! なんでだ! なんで何もかもうまくいかねぇんだ!」


 ゼインは凍ったパンを地面に叩きつけた。


 ガキンッ!


 硬質な音。パンが砕け散る。

 石のように硬化したそれを、今の彼らの顎で噛み砕くのは不可能だった。


「リド……あいつ、どこに行ったのよ……」


 エリスが泣く。


 「なんで私たちがこんな目に」


 理不尽への逆ギレだ。後悔じゃない。

 自分たちが招いた結果だとは、死んでも認めない。


「探すぞ! あいつを見つけ出して、手伝わせるんだ!」


 ゼインが血走った目で叫ぶ。


「あいつはまだ近くにいるはずだ! この吹雪の中、遠くへ行けるわけがねぇ!」


 無理だ。

 リドは既に、暖房の効いた部屋で優雅な朝食を終え、彼らなど想像もつかない速度で移動している。

 その絶望的な「格差」に気づくのは、もう少し先の話。


     ————


『警告。生体反応、検知ディテクト


 出発して一時間。

 シィのアラート。


 モニター地図上で、赤い点が弱々しく明滅している。


「敵か?」


『識別信号……該当なし。魔物ですが、敵対行動なし。バイタル微弱。瀕死状態です』


 瀕死の魔物。

 捕える手間に見合わない。死にかけの魔物からは大した魔石も取れない。

 通り過ぎようとした時、モニターに映像が表示された。


 白い毛玉。

 雪に埋もれるように倒れる、一匹の銀狼。

 まだ子供か。サイズは中型犬程度。

 全身傷だらけで、赤い雪が広がっている。


 だが、その瞳。

 金色の瞳だけは、諦めきれない光を宿して、遠ざかる要塞を睨んでいた。


「……」


 胸が、チクリと痛む。

 

 重なった。

 昨日の自分と。

 誰にも助けを求められず、雪の中で死にかけていた、「無価値」と断じられた自分と。


『マスター? スルーしますか?』


「……」


 見なかったことにしろ。

 俺には関係ない。ただの野良犬だ。

 そう自分に言い聞かせるが、視線を外せない。


「……チッ。非効率だな」


 舌打ちが漏れた。


「あんな目立つ色の毛皮、獲物にしてくれと言ってるようなもんだ。バカな生物だ」


『……肯定。生存戦略としては下策ですね』


「だが……用心棒くらいにはなるかもしれない」


 言い訳。

 嘘だ。

 メリット計算なんてしていない。

 ただ、あの「死にたくない」という目を、見過ごせなかった。


「シィ、停車。回収する」


『……了解。マスター、貴方は本当に』


 シィが言葉を詰まらせた気がした。


『いえ。タラップ降下。……お人好しの計算外も、たまには悪くありません』

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