第3話 売り言葉に買い言葉

「あんた、どしたん、その恰好?」


 仕事の合間に夕食をとろうと、行きつけの食堂に入った途端、俺の制服姿を見て、おかみさんが素っ頓狂な声を上げた。


「ああ、言ってなかったけど、俺今日からタクシー運転手になったんだよ」


「ええーっ! なんで、わざわざそんなきつい仕事を選んだの?」


「俺、転職に有効な資格とか免許を持ってないから、正社員として採用してくれるところが、中々見つからなくてさ。仕方ないから、この仕事に就いたってところかな」


「ふーん。まあ、せっかく入ったんじゃけえ、頑張りんさいや。どうせやるなら、日本一のタクシー運転手を目指しんさい」


 おかみさんは俺の背中をたたき、そのままカウンターの奥に消えていった。

 自称、高校時代バレーボール部のエースアタッカーだった彼女は、高校を卒業して四十年以上経った今でも力が強い。本人は軽くたたいたつもりなのだろうが、その衝撃は凄まじく、彼女の手形が付いてるんじゃないかと思うくらい、痛みでしばらく背中がジンジンしていた。


 やがて夕食を済ませると、俺はオフィス街に向かって車を走らせた。

 夕方五時から七時までは、歓楽街に向かうサラリーマンやOLがタクシーを利用することが多いと、岡本さんが言っていたからなのだが、やはりというか予想通りというか、オフィス街に着くと多くの空車のタクシーがゆっくりと左側を走っていた。

 こんな状況では客を乗せるのは難しいかなと思いながらも、せっかくここまで来たのだからと、俺はしばらくその周辺を走った。

 それから一時間くらい経過した頃、スーツを着た四人の男性が手を挙げているのが目に入った。俺は助手席に置いている釣銭箱を素早く足元に移動させると、ドアを開けて彼らを招き入れた。助手席に乗った三十歳くらいの男性に「とりあえず歓楽街まで」と言われた俺は、すぐさまそこに向かって車を走らせた。


 やがて歓楽街に入ると、男性は道順を細かく説明し始めた。まだ初心者で道に詳しくない俺にとってはとても有難く、男性に言われるがまま運転していた。

 ところが、いつまでたっても目的地に着かず、ふと横を見ると、男性はしきりに窓の外を見ながらブツブツ言っていた。後ろに座っている三人もよく分かっていないみたいで、完全に男性に任せきりにしていた。

 やがて男性はパニック状態になり、ついに俺に向かって「運転手さん、〇〇ビルって知ってる?」と訊いてきた。


「すみません。実は私、今日が初乗務なもので、ビルの名前とかよく分からないんですよ」


「はあ? それならそうと、最初に言えよ!」


 逆ギレした男性は俺に八つ当たりすると、すぐさま「じゃあ、無線で聞けよ!」と命令してきた。俺はその態度に立腹しながらも、それは表情には出さず、男性に言われた通りにした。

 その後、目的地の○○ビルに着くと、そこは一度通り過ぎている所で、男性が他の三人との話に夢中になって見落としたのは明らかだった。

『迷惑かけてすみませんでした』と男性が謝って、チップでもくれるんじゃないかと思っていると、「なんだ、ここだったのかよ。一度通り過ぎてるじゃん。えっと、料金は千八百円か。じゃあ余分に走ったということで、五百円引いて千三百円でいいよね?」と、男性は自分のミスを棚に上げて勝手に値切り始めた。


「えっ! それはできませんよ」


 俺は当然のように反論した。


「なんで? だって運転手さんが迷わなかったら、千円くらいで行けてるはずだよ。それを三百円も余分に払おうとしてるのに、何が気に入らないの?」


「私はお客様の指示通りに運転していただけですよ。迷ったのは私ではなく、お客様の方じゃないですか」


「最初にちゃんと行き先を確認しなかったのがいけないんだろ!」


「確認したでしょ! お客様は歓楽街までとおっしゃいましたよね? 歓楽街に入ってから、最初は細かく指示を出されていましたけど、途中から後ろの三人との話に夢中になっていましたよね? その時に見落としたのではありませんか?」


「だからそうじゃなくて、最初にビルの名前を確認しなかったのがいけなかったと言ってるんだよ」


「人のせいにしないでくださいよ。いいから早く千八百円払ってください」


「嫌だね。俺は絶対千三百円しか払わないからな」


「そんな子供みたいなこと言わないでくださいよ。皆さんも黙ってないで、何か言ってください」


 俺は堪らず、後ろの三人に助けを求めた。すると、その中の一人が「このままじゃ埒が明かないから、千三百円と千八百円の間をとって千五百五十円でどうだろう?」と、とんちんかんな提案をしてきた。

 無論、俺はそれを受けるつもりはさらさらなく、「私だって余計な時間を使って迷惑してるんですよ。本当は千八百円の他に、迷惑料を要求したいくらいなんですからね」と言ってやった。


「あんた、それは言い過ぎだろ! クレームの電話をしてやるから、会社名とあんたの名前を教えろ!」


「高橋交通の山村だ! 文句があるなら、いつでも電話してこい!」


 まさに売り言葉に買い言葉。男性は「釣りはいらん!」と、俺に千円札二枚を投げつけ、後ろの三人とともに車を降りた。


(やってしまった。いけないと知りつつも、男性のあまりの身勝手ぶりに、感情を抑えることができなかった)


 たかぶる気持ちを静めるため、公園の横に車を停めて休憩していると、会社から呼び出しの連絡があった。

 それが先程の男性に関わることなのはほぼ間違いなく、俺は憂鬱な気分で会社に向かった。

 やがて会社に着くと、研修の時に教育係だった佐藤さんが鬼のような形相をして待っていた。彼が言うには、クレームの電話が二件来ているとのことだった。

 一つはもちろんさっきの件だったが、もう一つが分からなかったので、詳しく訊いてみると、相手は三十代くらいの女性で、終始失礼なことを言われたうえに、最後はチップを要求されたと言っていたらしい。


(ああ、あの厚化粧のトラック運転手か。確かに怒ってはいたが、わざわざ電話してくるとはな。知らない間に、会社名と俺の名前をチェックしていたということか。女って怖えー)

 




 

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2025年12月25日 06:00

タクシー稼業は楽じゃない 丸子稔 @kyuukomu

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