第二章:二つの宇宙が重なる夜
遥は涙を拭った。その仕草は急だったが、しかし優美だった。白衣の袖で目元を押さえる姿は、どこか少女めいていた。
「ごめんなさい……何故だか……」
彼女は自分の反応が理解できなかった。論理的思考を何より重んじる彼女が、初対面の男性を前に涙を流している。これは科学的に説明できない。でも、感情は科学を超えたところで起きていた。
「いいんだ」
蒼は優しく言った。彼は遥に近づこうとしたが、途中で立ち止まった。まるで、目に見えない境界線があるかのように。
「君は混乱しているだろう。当然だ。僕だって、こんな状況は初めてだから」
「あなたは……本当に、神崎蒼?」
遥は深呼吸をして、研究者としての冷静さを取り戻そうとした。背筋を伸ばし、白衣の襟を正す。その仕草には、自分を落ち着かせようとする意図が見て取れた。
「ああ。少なくとも、僕がいた宇宙では、そう呼ばれていた」
「宇宙……あなたは、本当に別の宇宙から来たと?」
遥はデスクに歩み寄り、ノートパソコンを開いた。指先がキーボードを滑る。その動きは機械的でなく、まるでピアノを奏でるようだった。
「証明してもらえますか?」
「証明……」
蒼は苦笑した。
「君らしいね、遥。何でも証明を求める」
「当然です。科学者ですから」
遥の声には、普段の彼女が戻ってきていた。冷静で、論理的で、感情を排した声。でも、指先が微かに震えているのを、彼女は気づかれないように隠した。
「わかった。じゃあ、これは?」
蒼は自分のスマートフォンを取り出した。画面を操作して、遥に見せる。
そこに映っていたのは、写真だった。遥と蒼が、並んで笑っている写真。背景は海。夕暮れ時。二人は手を繋いでいた。
遥の心臓の鼓動が早まる。写真の中の自分は、確かに自分だった。でも、こんな写真を撮った記憶はない。この服も、この場所も、この笑顔も――いっさい知らない。
「これは……合成?」
「違う」
蒼は静かに言った。
「これは、僕がいた宇宙の、五年前の写真だ。君と僕が、初めて海に行った日の」
遥は写真を凝視した。細い指がスマートフォンの画面に触れそうになり、しかし触れることを躊躇う。その仕草には、恐れと憧憬が混じっていた。
「でも……私は……」
「君は憶えていない。当然だよ。この宇宙の君は、僕と出会っていないから」
蒼は深い溜息をついた。
「説明するよ。全部」
二人は研究室の椅子に座った。遥は姿勢を正し、両手を膝の上で組んだ。その姿勢は緊張していたが、同時に聞く準備ができていることを示していた。蒼は窓の外を見ながら、話し始めた。
「五年前、僕の宇宙では、君と僕は出会った。大学の図書館で。君が探していた数学書を、僕が偶然手にしていた」
遥の眉が僅かに動いた。五年前、彼女は確かにある数学書を探していた。『遠アーベル幾何の基礎』――IUT理論を理解するために必要な本。でも、その本は結局見つからなかった。
「君は僕に声をかけた。『すみません、その本、お借りできますか』って。君の声は、風鈴みたいに澄んでいた」
蒼の声には、遠い記憶を辿るような響きがあった。
「僕たちは話し始めた。数学のこと、研究のこと、人生のこと。君は最初、警戒していた。でも、徐々に心を開いてくれた」
遥は無意識に、髪を耳にかけた。その仕草は、緊張したときの彼女の癖だった。細い指が髪を滑らせ、耳たぶに触れる。その動きを、蒼は懐かしそうに見つめた。
「君のその仕草、変わってないんだね」
「え?」
「髪を耳にかける。考え事をしているときや、緊張しているとき、君はいつもそうする」
遥は驚いて手を下ろした。確かに、彼女の癖だった。でも、それを指摘されたのは初めてだった。
「あなたは……本当に、私を知っているのね」
「ああ」
蒼は微笑んだ。その笑顔には、深い愛情と、同じくらい深い悲しみがあった。
「君のことは全部知っている。朝、白衣のボタンを留めるときの仕草。コーヒーを飲むとき、必ず両手でカップを持つこと。考え事をしているとき、無意識に唇を噛むこと――」
「……やめて」
遥は立ち上がった。
白衣の裾が揺れる。
彼女は窓辺に歩み寄り、外を見た。
夕陽が研究棟を染めている。
「あなたが私を知っているのはわかりました。でも……それが何の証明になるんですか?」
「証明には、ならない」
蒼も立ち上がった。
「科学的な証明なんて、できない。でも遥、君は心の奥で気づいているはずだ。僕が嘘をついていないことを」
遥は振り返った。夕陽が彼女の横顔を照らし、その輪郭を金色に縁取る。長い睫毛が影を作り、瞳に複雑な光を宿していた。
「私の心……」
彼女は自分の胸に手を当てた。白衣の上から、心臓の鼓動を感じる。やはりいつもより速く打っている。
「私は、論理で考える人間です。感情では判断しません」
「本当に?」
蒼は一歩近づいた。
「じゃあ、なぜ泣いたんだい? 僕を見て」
遥は答えられなかった。彼女は視線を逸らし、再び窓の外を見た。細い首筋に、夕陽の光が当たっている。その肌は白く、繊細で、まるで磁器のようだった。
「……教えてください」
遥は静かに、しかし絞り出すように言った。
「あなたの宇宙では……私たちは、どうなったんですか?」
蒼は沈黙した。長い、重い沈黙。遥はその沈黙の重さを、背中で感じていた。
「君は……僕を拒絶した」
蒼の声は震えていた。
「一年間、僕たちは一緒にいた。幸せだった。少なくとも、僕は幸せだった。でも君は……」
遥は振り返った。蒼の顔を見た。彼の目には、うっすらと涙が浮かんでいた。
「君はこう言ったんだ」
そこで彼は深い嘆息をはさんだ。
「『愛は証明できない。だから、信じられない』って」
遥の息が止まった。その言葉――それは、まさに彼女が考えていることだった。何度も、心の中で繰り返してきた言葉。
「君は研究に戻った。僕を、自分の人生から消した。まるで、一年間の思い出が、全て幻だったかのように」
蒼は拳を握りしめた。
「僕は、君を忘れられなかった。五年間、ずっと。そして、気づいたんだ。この宇宙が……違うんだって」
「違う?」
「ああ。僕がいた宇宙と、この宇宙は、微妙に異なっている。IUT理論で言う『位相の変形』が起きている」
遥は息を呑んだ。それは、まさに彼女が今朝観測した現象だった。
「あなたは……私の研究を知っているんですか?」
「知っている。君の宇宙でも、僕の宇宙でも、君は同じ研究をしている。宇宙際タイヒミュラー理論の物理学的応用」
蒼は遥に近づいた。二人の距離が、わずか一メートルになる。
「そして、君の研究が、今日、閾値を超えた。だから、僕はここに来られた」
「閾値……?」
「二つの宇宙の間の、位相差がゼロになる瞬間。君の計算が、その瞬間を作り出したんだ」
遥は理解し始めていた。今朝の異常な観測値。重なり合う波形。二本の時計の針。全てが繋がっていく。
「つまり……あなたは……」
「過去から来た。いや、正確には、別の宇宙線上の過去から。君が僕を拒絶した直後の時点から」
遥は震える手で、デスクの上の時計を取った。二本の針は、今も重なったまま止まっていた。
「この時計……」
「それは、二つの宇宙の時間差を示しているんだと思う。君の宇宙の時間と、僕の宇宙の時間。今は重なっているから、針も重なっている」
遥は時計を見つめた。母の形見。止まっていたはずの時計が、なぜ今日動き始めたのか。それは偶然ではなかった。全てが、連動していた。
「私は……」
遥の声は掠れていた。
「私は、どうすればいいんですか?」
「何も」
蒼は優しく言った。
「君は君の人生を生きればいい。ただ――」
彼は遥の目を見た。深い、深い瞳。その奥に、五年分の想いが詰まっていた。
「もう一度だけ、チャンスが欲しい。君を愛する機会を」
遥の心臓が、さらに激しく打った。胸が苦しい。呼吸が浅くなる。彼女は白衣の襟元を掴んだ。細い指が布地を握りしめる。
その瞬間、研究室のドアが、再びノックされた。
遥と蒼は、同時にドアを見た。
「誰……?」
遥が聞く前に、もうドアが開いていた。
そこに立っていたのは、もう一人の男性だった。
蒼より少し年上に見える。三十代前半。顔立ちは――蒼と、驚くほど似ていた。いや、同じだった。
でも、雰囲気が違う。蒼が若々しい情熱を纏っているのに対し、この男性は落ち着いた、成熟した雰囲気を持っていた。
「やあ、遥」
男性は微笑んだ。
「久しぶり、と言っても、君にとっては初対面だね」
蒼が息を呑んだ。
「お前……まさか……」
「そう」
男性は蒼を見た。二人の目が合う。同じ顔、同じ瞳。鏡を見ているような、しかし決定的に違う何か。
「僕は神崎
遥の世界が、音を立てて崩れていった。
同じ人間が、二人。過去と未来。異なる時間軸から、同時に現れた。
彼女は後ずさり、壁に背をつけた。細い体が、小刻みに震えている。
「これは……夢?」
「夢じゃない」
碧が静かに言った。
「これは、君が作り出した現実だよ、遥。君の研究が、宇宙の扉を開いた」
遥は膝から崩れ落ちそうになった。でも、なんとか持ちこたえた。壁に手をついて、身体を支える。その姿は、嵐に耐える一本の木のようだった。
「私が……」
「そう」
碧は遥に近づいた。蒼が反射的に身構える。
「君は、宇宙と宇宙を繋ぐ特異点なんだ。椎名遥。君の存在そのものが、位相的な橋になっている」
遥は二人を見た。蒼と碧。過去と未来。同じ人間の、異なる時間。
「あなたたちは……本当に、同じ人?」
「「ああ」」
二人は同時に答えた。
そして、互いを見た。
その視線には、複雑な感情が渦巻いていた。
シュレが、遥の足元で鳴いた。猫は不思議そうに、二人の男性を交互に見ている。まるで、どちらが本物か判断しようとしているかのように。
遥は猫を抱き上げた。柔らかな毛並みを抱きしめる。その温かさが、彼女をかろうじて現実に繋ぎ止めていた。
「説明してください」
遥は言った。声は震えていたが、しっかりしていた。
「全部。何が起きているのか。あなたたちが何者なのか。そして――」
彼女は二人を見た。
「私が、何をしてしまったのか」
蒼と碧は、顔を見合わせた。そして、碧が口を開いた。
「長い話になるよ。まず座ろうか」
三人は、研究室の中央に椅子を並べた。遥は猫を膝に乗せたまま座った。蒼と碧は、彼女の両側に座る。
奇妙な構図だった。一人の女性と、二人のほぼ同じ顔の男性。
過去、現在、未来が、一つの部屋で交わっている。
「五年前――」
碧が話し始めた。
「僕の宇宙では、君と僕は出会った。そして、恋に落ちた」
それは、蒼が語ったのと同じ話だった。でも、続きが違った。
「君は僕を受け入れた。愛を、証明できなくても信じると決めた」
遥の目が見開かれた。
蒼の宇宙と、碧の宇宙。
同じスタート、そして異なるエンディング。
「僕たちは結婚した。幸せだった。君は研究を続け、僕はそれを支えた。そして、三年前――」
碧の声が、僅かに震えた。
「君は、病気で亡くなった」
遥の息が止まった。
「君の研究が、完成する直前だった。宇宙際通信の数学的基盤。でも、君はそれを見ることができなかった」
碧は目を閉じた。
「僕は、君を失った。そして、君の研究を引き継いだ。二年かけて、完成させた。そして、今日――」
彼は目を開けた。その瞳には、深い悲しみと、同時に希望の光があった。
「君の理論が、本当に機能することを確認した。そして、この宇宙に来た。君が生きている宇宙に」
遥は言葉を失っていた。彼女の手が、無意識に胸元を押さえる。その仕草には、自分の存在を確認しようとする切実さがあった。
「私は……死ぬの?」
「僕の宇宙では、そうだった」
碧は静かに言った。
「でも、この宇宙では、まだわからない。宇宙は分岐する。選択によって」
「選択……」
遥は蒼を見た。蒼は苦しそうな顔をしていた。
「僕の宇宙では、君は僕を拒絶した。でも、生きている」
蒼が言った。
「碧の宇宙では、君は彼を受け入れた。でも、亡くなった」
それは二つの可能性。
愛を拒んで生きるか。
愛を受け入れて死ぬか。
「そんな……」
遥の声は震えていた。
「そんな選択、できない……」
「しなくていい」
碧が優しく言った。
「今はまだ、何も決まっていない。君は自由だ、遥。この宇宙では、全てがこれから決まる」
遥は深く息を吸った。猫が彼女の膝の上で丸くなっている。その温かさが、唯一の慰めだった。
「あなたたちは……どうなるんですか?」
「わからない」
蒼と碧は、同時に答えた。
「この状況は、前例がない。同じ存在が、異なる時間軸から同時に現れるなんて」
遥は立ち上がった。猫を優しく床に下ろし、窓辺に歩む。外はもう暗くなっていた。星が見え始めている。
彼女は自分の手を見た。細く、繊細な手。この手が、宇宙を変えた? この手が、時空を繋いだ?
「信じられない……」
「でも、真実だよ」
碧が近づいてきた。蒼も立ち上がる。
三人は、窓の外の星空を見た。
「あの星の一つ一つが、異なる宇宙かもしれない」
碧が囁いた。
「そして、その全てで、異なる君が生きている。僕を愛した君、拒絶した君、出会わなかった君……」
「でも」
遥は小さく言った。
「ここにいる私は、一人だけ」
「そう」
蒼が答えた。
「だから、君の選択が、この宇宙を決定する」
遥は目を閉じた。長い睫毛が頬に影を落とす。
彼女の心の中で、何かが動き始めていた。論理では説明できない何か。数式では記述できない何か。
それは、恐怖だったかもしれない。憧憬だったかもしれない。
あるいは――愛の萌芽だったかもしれない。
【SF恋愛短編小説】位相の恋人 ~愛の不完全性定理と重なり合う貴方~ 藍埜佑(あいのたすく) @shirosagi_kurousagi
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