【SF恋愛短編小説】位相の恋人 ~愛の不完全性定理と重なり合う貴方~
藍埜佑(あいのたすく)
第一章:数式の向こう側
朝の光が研究室の窓から差し込むとき、椎名遥はいつも同じ仕草でその日を始める。
まず、肩まで伸びた黒髪を耳にかける。細い指先が髪を滑らせる動きは、ピアニストが鍵盤に触れる直前のような緊張と優雅さを帯びていた。次に、白衣のボタンを一つ一つ留めていく。その所作には無駄がなく、それでいて機械的ではない柔らかさがあった。まるで、世界との間に透明な膜を一枚ずつ重ねていくような、静かな儀式。
彼女にとって研究室は
「おはよう、シュレ」
遥は柔らかく微笑んで、足元で尻尾を揺らす三毛猫に声をかけた。シュレーディンガー――通称シュレは、三年前に遥が拾った猫だった。量子力学の思考実験から取った名前だが、この猫は箱に入れなくても十分に不可思議な存在だった。
遥がしゃがみ込むと、白衣の裾が床に広がる。その動きは水面に広がる波紋のようで、猫は興味深そうにその白い布地に前足を乗せた。遥は猫の頭を優しく撫でる。指先が柔らかな毛並みを辿るとき、彼女の表情には研究者としての厳格さとは別の、女性らしい慈しみが浮かんでいた。
「今日も頑張ろうね」
立ち上がった遥は、デスクに向かった。三つのモニターが彼女を迎える。中央のモニターには、彼女が三年かけて構築してきた数学モデルが表示されていた。
宇宙際タイヒミュラー理論――IUT理論。
二〇一二年に京都大学の望月新一教授が発表したこの理論は、数学界に激震をもたらした。それは単なる新しい定理ではなく、数学そのものの枠組みを再構築する試みだった。異なる「宇宙」――数学的構造の異なる世界――の間の対称性を記述する、前人未到の理論。
遥の研究テーマは、このIUT理論を物理学に応用することだった。もし異なる数学的構造を持つ「宇宙」が実在するなら、それらの間にはどんな通信チャネルが存在しうるのか。その問いが、彼女の人生を駆動するエンジンだった。
キーボードを叩く指先は細く、それでいて力強かった。爪は短く整えられ、装飾品は何もつけていない。機能美だけを追求した手――それは彼女の生き方そのものを表していた。
モニターに数式が流れていく。遥の瞳がその動きを追う。長い睫毛が微かに震え、時折、考え込むように唇を軽く噛む仕草を見せる。その横顔は、まるで古典絵画の聖女のように静謐で、それでいて内に秘めた知性の炎が燃えているのが分かった。
コーヒーカップに手を伸ばす。白磁のカップを両手で包み込むようにして持ち上げる仕草は、まるで何か大切なものを守るようだった。唇をカップの縁に近づけ、一口啜る。その動作の一つ一つに、彼女特有の繊細さと気品が宿っていた。
午前中の研究は順調だった。新しいパラメーター設定で計算を回すと、予想外の結果が得られた。遥の心臓が高鳴る。これは――。
「奇妙だわ……」
彼女は椅子から立ち上がり、モニターに近づいた。画面を凝視する姿勢は前傾し、白衣を着た背中のラインが美しい曲線を描く。計算結果を指でなぞりながら、小さく首を傾げる仕草を見せた。その仕草には少女のような無邪気さと、研究者としての鋭敏さが同居していた。
シュレが足元で鳴いた。遥は我に返り、時計を見る。もう正午を過ぎていた。
「ごめんね、お腹空いたのね」
遥はしゃがみ込んで猫を抱き上げた。細い腕で抱きかかえられた猫は、満足そうに喉を鳴らす。遥の頬が猫の柔らかな毛に触れる。その表情は穏やかで、幸福そうだった。数式の世界にいる彼女とは別人のように。
研究室を出て、大学構内のカフェに向かう。遥の歩き方には独特のリズムがあった。急がず、しかし迷わず。白衣の下に着た紺色のワンピースの裾が、歩調に合わせて揺れる。髪が肩で弾む。その後ろ姿を見送る学生たちの視線に、彼女は気づいていなかった。
「椎名先生、いらっしゃい」
カフェ「エピソード」のマスター・桐島詩郎が、カウンター越しに声をかけてきた。六十代半ばの初老の男性で、この大学で三十年以上カフェを営んでいる。
「こんにちは、桐島さん。今日もいつもので」
「アイスコーヒーとチーズケーキだね」
遥は窓際の定位置に座った。バッグから文庫本を取り出し、栞を開く。読書をするときの彼女の姿勢は美しかった。背筋を伸ばし、本を適度な角度で持ち、ページをめくる指先は丁寧で愛おしむようだった。
「最近、どうだい? 研究は」
桐島がコーヒーを運んできた。遥は本から目を上げ、微笑んだ。
「順調です。でも、今日少し不思議なことがあって」
「不思議?」
遥は説明した。今朝の計算結果のこと。
同一の座標に、理論上は存在しえない二つの異なる値が観測されたこと。
「それは……」
桐島は少し考えてから言った。
「詩で言えば、同じ言葉が二つの異なる意味を同時に持つような、そんな状態かな?」
「詩、ですか」
遥は不思議そうに桐島を見た。彼女にとって詩は、数学とは対極にある曖昧で非論理的な何かだった。
「そう、詩だよ。例えば『光』という言葉。物理現象としての光もあれば、希望の象徴としての光もある。同じ言葉が、異なる宇宙で異なる意味を持つ。でもね、椎名先生――」
桐島は優しく微笑んだ。
「その二つの意味は、矛盾しない。むしろ重なり合うことで、より豊かな真実を語るんだよ」
遥はコーヒーカップを持ち上げ、ゆっくりと一口飲んだ。その仕草には思索の深さが滲んでいた。細い喉がコーヒーを飲み込む動きは優雅で、それでいて無意識的だった。
「詩と数学……そこに接点はあるのでしょうか」
「あるさ。どちらも、言葉にできない真実を、言葉で表現しようとする試みだからね。数学の場合は、数学の言葉でね」
遥は微笑んだ。その笑顔には、理解したような、しかしまだ半信半疑のような、複雑な感情が混じっていた。
カフェを出て研究室に戻る途中、遥は自分の母の形見を思い出した。
腕時計。
母が亡くなる直前に遥に渡したアンティークの時計。
もう十年も前のことだ。
研究室に戻ると、遥は引き出しから時計を取り出した。銀色の文字盤、繊細な針、革のバンド。動いていない。電池が切れてから、遥は敢えて直さなかった。時間が止まったままのその時計は、母との時間が永遠に保存されているような気がしたからだ。
遥は時計を手のひらに乗せた。細い指がケースを撫でる。その仕草は、失われたものへの追慕に満ちていた。
「お母さん……」
小さく呟いて、遥は時計をデスクの上に置いた。そして、再び研究に没頭した。
夕方になり、計算プログラムが完走した。遥は結果を開いた瞬間、息を呑んだ。
画面に表示されていたのは、二つの重なり合う波形だった。同じ時空座標に、異なる位相を持つ二つの存在が観測されている。それは量子もつれでも、測定誤差でもなかった。
まるで――同一の存在が、二つの異なる歴史を持っているかのような。
「これは……」
遥の指先がマウスを握りしめた。細い指に力が入り、関節が白くなる。
その瞬間、デスクの上の母の時計が、突然動き始めた。
カチ、カチ、カチ。
遥は時計を見た。針が動いている。電池は切れているはずなのに。
そして、遥は気づいた。時計の針が、二つあった。
秒針が二本。一本は通常の速度で、もう一本はそれより少し遅く。二つの針が、同じ文字盤の上で、異なる速度で時を刻んでいた。
「何が……起きて……いるの……?」
遥の言葉が途切れた。研究室の空気が、突然冷たくなった気がした。シュレが不安そうに鳴いている。
モニターの波形が激しく振動し始めた。そして――
研究室のドアがノックされた。
遥は振り返った。髪が肩で揺れ、白衣の裾が優雅に翻る。その姿は緊張に満ちていたが、それでも美しかった。
「どなた……ですか?」
返事はなかった。しかし、ドアノブがゆっくりと回り始めた。
遥の心臓が激しく打った。細い胸が上下する。彼女は無意識に、白衣の襟元を手で押さえた。その仕草には、女性としての本能的な警戒心が表れていた。
ドアが開いた。
そこに立っていたのは、見知らぬ青年だった。
いや――見知らぬ、ではない。遥は彼を知っている気がした。どこかで会ったような、夢で見たような。
青年は二十代前半に見えた。黒い髪、深い瞳、整った顔立ち。そして何より印象的だったのは、その目だった。遥を見る目。まるで、何年も前から彼女を知っていたかのような、懐かしさと悲しみが混じった目。
「やっと……会えた」
青年は震える声で言った。
「遥……」
遥は後ずさった。誰も彼女を下の名前で呼ばない。学生は「椎名先生」と呼び、同僚は「椎名さん」と呼ぶ。でもこの青年は、まるで恋人のように、親しげに彼女の名を口にした。
「あなたは……誰?」
遥の声は震えていた。細い肩が小刻みに揺れている。でも、逃げなかった。研究者としての好奇心が、恐怖を上回っていた。
「僕は……」
青年は一歩前に出た。
「神崎
彼は言葉を探すように空を見上げた。
「君の、愛した人。五年前の」
遥の目が大きく見開かれた。長い睫毛が震え、紅い唇が微かに開く。その表情は、困惑と、そして何か別の感情――認識の端に触れかけた記憶のような何かに満ちていた。
「五年前……? でも、私は……」
「知らないよね。当然だ」
蒼は悲しそうに微笑んだ。
「君の宇宙では、僕たちは出会っていない。でも、別の宇宙では――」
その瞬間、デスクの上の時計が、甲高い音を立てて止まった。
二本の針が、ぴたりと重なって。
研究室の空気が、再び変化した。今度は温かくなった。まるで春の陽だまりのような。
遥は気づいた。自分の頬が濡れていることに。涙が流れている。なぜ? この人を知らないはずなのに。会ったことがないはずなのに。
でも、心が知っていた。細胞が記憶していた。
彼女の体が、青年の名を憶えていた。
私はこの人を知っている――。
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