ブラック企業勤めの俺、隣に住む「絶対聖域」JKに餌付けされ、いつの間にか合鍵を渡して胃袋も心も掌握されていた件
@pepolon
第1話 残業帰りのベランダと、絶対聖域の肉じゃが
「——冬月さん! 好きです、付き合ってください!」
私立秀嶺(しゅうれい)学園、昼休みの中庭。
悲痛な叫び声が響き渡り、周囲の生徒たちが足を止めた。
告白しているのは、サッカー部のエース。爽やかな笑顔が売りの、学年有数のイケメンだ。
だが、彼が頭を下げた相手——冬月(ふゆつき)ましろの表情は、氷点下のように冷ややかだった。
「……ごめんなさい。興味ないので」
取り付く島もない、とはこのことか。
彼女は長い睫毛を一度も揺らすことなく、冷淡に告げると、踵を返して歩き去っていく。
「うわぁ……また撃沈かよ」
「あれで通算何人目だ? マジで『絶対聖域』だな……」
冬月ましろ。高校一年生。
腰まで届く濡羽色(ぬればいろ)の黒髪に、陶磁器のように白く透き通った肌。
整いすぎた顔立ちは、感情を持たない精巧なビスクドールを連想させた。
入学以来、告白された回数は三桁を超えるという。
だが、その全てを「興味ありません」の一言で氷漬けにし、誰一人として寄り付かせない。
故についた二つ名が——『絶対聖域(アブソリュート・サンクチュアリ)』。
誰も触れることのできない、高嶺の花の最高峰。
それが、彼女に対する周囲の認識だった。
◇
(……はぁ。高校生は元気でいいよなぁ)
そんな学園の伝説など知る由もなく。
俺、高瀬大和(たかせやまと)——二十六歳、独身、彼女なし——は、今日も深夜二時の冷たい夜風に吹かれていた。
「……つっかれた」
重い。体が鉛のように重い。
今週に入ってから三日連続の終電帰り。
システムトラブルの対応で怒鳴られ続け、謝罪し続け、今の俺に残っているのは耳鳴りと頭痛だけだ。
築年数は古いが、防音性だけは高いマンションの三階。
重い足取りでオートロックを抜け、自分の部屋のドアを開ける。
「……ただいま」
返事はない。
電気をつけると、そこには荒廃した光景が広がっていた。
机の上に積み重なった、洗っていないコンビニ弁当の空き容器。
脱ぎ捨てられたYシャツ。
埃を被ったテレビ。
寝るためだけに帰る場所。それが今の俺の城だった。
「……なんか、食うか」
冷蔵庫を開けるが、中に入っているのは賞味期限切れのドレッシングと、いつ買ったか分からない栄養ドリンク、そして缶ビールだけ。
虚しさが込み上げてくる。
俺、何のために働いてるんだっけ。
部屋の空気の悪さに耐えられなくなり、俺は缶ビール一本を掴んで、逃げるようにベランダへ出た。
プシュッ。
静寂に、缶を開ける音が響く。
「……あー、沁みる」
空きっ腹に流し込むアルコールだけが、生きている実感を与えてくれる。
手すりに寄りかかり、薄汚れた東京の夜空を見上げていると、不意に、隣の部屋のベランダから物音がした。
カチャリ、と窓が開く音。
(お隣さんか……こんな時間に珍しいな)
このマンションに越してきて二年になるが、隣人と顔を合わせたことは一度もない。
分厚い曇りガラスのパーテーションがあるため、姿も見えない。
気まずくなって部屋に戻ろうとした、その時だった。
ふわり、と風に乗って、とんでもなく破壊力のある匂いが漂ってきた。
出汁と、醤油と、少し甘い砂糖の匂い。
実家を思い出すような、暴力的なまでの「家庭の匂い」だ。
「……ぅ」
あまりにいい匂いに、俺の腹がグゥ、と情けない音を立てた。
深夜二時の肉じゃが(推定)。
コンビニおにぎりしか食べていない今の俺には、毒すぎる。
「……あの」
不意に。
パーテーションの向こう側から、鈴を転がすような声が聞こえた。
「え?」
驚いて振り返る。
曇りガラスの向こうに、うっすらと人影が見える。女性だ。それも、かなり若い声。
「……お腹、空いてるんですか?」
その声は、どこか怯えているようで、それでいて何かを期待を含んでいるような響きだった。
「あ、いや、その……空いてます、けど。お恥ずかしいところを」
反射的に答えてしまった俺の目の前に、仕切りの下の隙間から、湯気の立つタッパーがぬっと差し出された。
「……作りすぎちゃったんです。肉じゃが」
「え?」
「よかったら、食べてくれませんか? ……捨てちゃうのも、勿体ないので」
見ず知らずの隣人の手料理。
普段の俺なら、警戒して断っていただろう。
だけど、今の俺は正常な判断力を失っていたし、何よりその匂いの誘惑には勝てなかった。
「……あ、ありがとうございます。いただきます」
俺は震える手で、タッパーを受け取った。
まだ温かい。人肌のような温もりが、冷え切った指先に伝わる。
蓋を開けると、黄金色に輝くジャガイモと、味が染みていそうな豚肉、彩りの絹さやが目に飛び込んでくる。
備え付けられていた割り箸を割り、一口、食べた。
「……うまっ」
口に入れた瞬間、崩れるジャガイモ。
優しく、甘く、疲れた内臓に染み渡るような出汁の味。
コンビニ弁当の味気なさとは違う、誰かが時間をかけて作った「家庭」の味。
「うまい……これ、めちゃくちゃ美味いです……!」
気づけば、涙が出ていた。
深夜のベランダで、二十六歳の男がボロボロと泣きながら肉じゃがを食う。
客観的に見れば不審者極まりない光景だが、箸が止まらない。
心が、体が、この温かさを求めていた。
「……ふふっ」
仕切りの向こうから、小さく笑う声が聞こえた気がした。
嘲笑ではない。もっと柔らかく、安堵したような声。
「そんなに喜んでもらえるなんて、作りすぎた甲斐がありました」
「いや、本当に助かりました。生き返りました……あの、お礼をしたいので、よかったらお名前を——」
あっという間にタッパーを空にした俺は、袖で涙を拭い、慌てて居住まいを正した。
こんな美味いものを食わせてくれた隣人に、挨拶もしないわけにはいかない。
立ち上がり、自分の部屋の玄関へ向かう。
同時に、隣の部屋のドアが開く音がした。
深夜の共用通路。
鉢合わせる形になった俺の前に立っていたのは。
「——はじめまして。お隣の、冬月といいます」
夜の闇の中でも白く輝く肌と、艶やかな黒髪。
まるで日本人形が命を宿したような、この世のものとは思えない美少女だった。
彼女は、空になった俺の手元のタッパーに視線を落とすと、満足げに目を細めた。
学校では一度も見せたことがないであろう、微かな、しかし愛おしげな微笑み。
「全部、食べてくれたんですね」
それが、俺と『絶対聖域』様との、運命的な出会いだった。
次の更新予定
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