第14話 それぞれの夜
夜は、どこでも同じように訪れる。
街の北端、繁華街の裏路地。
ネオンがちらつくビルの谷間。ゴミ袋が積まれ、酒の匂いが漂う。そこに、小さな悪霊が生まれた。人間の酔っ払いが、喧嘩の末に刺された場所。血の匂いが、まだ残っている。怒りと後悔が、地面に染み込み、黒い霧となって立ち上る。まだ小さい。人の足首に絡みつくほどの大きさしかない。
別の猫たちが、気づいた。
五匹の群れ。小さなコミュニティ。リーダーは、耳の欠けたキジトラ。結界を張る役は、二匹の老猫。実働は、三匹の若い雄。影のように近づき、輪を作り、霧を囲う。爪が閃き、熱が放たれ、毒が散る。小さな悪霊は、すぐに薄まる。散らされ、路地の風に流される。完全には消えないが、今夜は、これ以上広がらない。
世界は何も変わらない。
翌朝、人間たちは同じ路地を通り、ゴミを蹴り、酒を飲み、また喧嘩するだろう。
東側の住宅街、高層マンションの屋上。
家族の喧嘩が、絶え間なく続く家。妻の叫び声、夫の怒鳴り声、子供の泣き声。それらが、夜ごとに溜まり、窓の隙間から漏れ出る。悲しみと無力感が、黒い滴となって落ち、屋上に小さな悪霊を形作る。まだ、形すら定まっていない。ぼんやりとした影。
別の猫たちが、向かう。
八匹の群れ。古い神社跡を拠点にする古株たち。リーダーは、白い長毛の老猫。見張りが、屋上を監視し、結界役が膜を張る。実働が、影を切り裂く。滴は、蒸発するように薄れ、風に散る。マンションの窓の明かりは、消え、またつく。家族は、明日も同じように喧嘩するだろう。
世界は何も変わらない。
負の感情は、尽きない。悪霊は、生まれ続ける。
南の工場地帯、閉鎖された倉庫。
リストラされた労働者たちの憎しみが、残る場所。失業の恐怖、貧困の絶望。それらが、鉄の壁に染みつき、ゆっくりと小さな悪霊を育てる。倉庫の隅で、霧が渦巻く。まだ、弱い。壁を這うほどの力しかない。
別の猫たちが、集まる。
十二匹の大きな群れ。再開発予定地の空き地から来た。連携は完璧。結界が広がり、爪が閃き、影が絡みつく。悪霊は、薄められ、倉庫の外へ散らされる。工場は、明日も静かに朽ちていく。人間たちは、別の場所で、また憎しみを生むだろう。
世界は何も変わらない。
断片的に、夜は続く。
別の場所で、小さな悪霊が生まれる。
別の猫たちが、それに向かう。
薄める。散らす。抑える。
完全な勝利はない。永遠の敗北もない。
ただ、戦いは続く。
人間が知らないところで。
夜ごとに、静かに。
最終章 夜を歩くもの
オレは、屋根の上を歩く。
夜風が、毛を撫でる。冷たく、澄んだ風。秋の終わりを告げるような。街は、遠くの街灯でぼんやりと照らされている。車が流れ、コンビニの明かりが点く。マンションの窓に、家族の影。人間たちの夜が、始まる。
オレは、群れに戻らない。
廃ビルへ、すぐに戻ることはしない。クロトの輪に、座り続けることもない。自由に動け──そう言われた通り。
一匹で、夜を巡回する。
だが、以前とは違う。
尻尾をゆっくり振り、耳を立てて風を聞く。気配を探る。悪霊の微かな匂い。負の感情の残り香。街のどこかで、小さな影が生まれているかもしれない。オレは、それを見つける。単独で、近づき、爪を立てる。薄める。散らす。群れに知らせる必要はない。知らせるまでもない小さなものなら、一匹で十分だ。
胸の奥に、確信がある。
呼べば、来る場所がある。
クロトの片目が、オレを認めた。猫たちが、匂いを共有した。輪の端に、居場所がある。危険が大きければ、低く唸ればいい。群れが、影のように集まる。背中を預けられる。連携できる。
一匹狼の自由を、失っていない。
群れの縛りを、受けていない。
ただ、帰る場所ができた。
呼べば、来る猫たちがいる。
オレは、屋根から屋根へ、飛び移る。
ベランダの跡を、遠くから見る。あの場所は、もう静かだ。人間はいない。皿もない。でも、記憶は残る。無言の優しさ。軽い関係。それが、オレを変えた。
夜風が、強くなる。
遠くの街灯が、揺れる。
オレは、影のように進む。
単独で、だが孤独ではない。
猫は今日も夜を歩く。
人間が知らない戦いのために。
痕跡─ある銀行員と一匹の猫─ Omote裏misatO @lucky3005
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